すみませんが梅田望夫さんの発言はやはりおもしろいです
梅田望夫さんのtwitterでの発言に関する一連の議論を読んで、「何だかんだでネットはよりおもしろくなりそうだな」と邪悪な嬉しさを感じたので、その嬉しさをまとめてみます。
■ 「コトリコ」さんがおもしろかった
一連の議論を俺の視点でまとめると以下のようになります(たぶん正統的ではないと思います)。
水村美苗という人が「日本語が亡びるとき」という本を書きました。これを梅田望夫という人が自分のブログで絶賛しました。
この本にこめられた、日本語を愛する水村美苗の「心の叫び」が、できるだけ多くの日本人に届くことを切に願う。
水村美苗「日本語が亡びるとき」は、すべての日本人がいま読むべき本だと思う。
ところがそのブログ記事へのコメントで梅田さん的には謎なコメントがあったようで、後日彼はtwitterというサービスで次のように発言しました。
はてな取締役であるという立場を離れて言う。はてぶのコメントには、バカなものが本当に多すぎる。本を紹介しているだけのエントリーに対して、どうして対象となっている本を読まずに、批判コメントや自分の意見を書く気が起きるのだろう。そこがまったく理解不明だ。
mochioumeda
ネット上でもリアルでもそれなりの立場と名声がある梅田さんのこの発言は、なかなかイントレスティング&バッシングしやすいようで、この発言を中心にいくつかの議論が交わされました。
(その議論には特に興味がないのですが)
で、その議論のなかで、コトリコという人が、この件に絡めて、とても素敵で文学的な文章をブログに書いていたのです。
悲しいことに、俺には到底コトリコさんの言っていることは理解できません(もちろん梅田さんの発言もよくわかりません)。
しかしながら、このコトリコさんの記事のはてなブックマークに以下のようなコメントが書かれていて、俺にとってはおもしろかったのです。
# 2008年11月13日 Metaphone
水村美苗があの本を出しただけではこの文章は書かれなかったはずで、もちおさんのあのpostのおかげでこの文章が読めたことを考えるとやっぱりインターネットは楽しい
はてなブックマーク 日本語がどうのこうの雑感 - コトリコ
■ 開かれっぱなしの可能性をもっと開く
このコメントを見て、先日の記事に書いた”可能性に開かれっ放しなだけの存在”という言葉を思い出しました。自分の言葉なのですが、自分で思い出してしまいました。
”自分”なんてもともと矛盾してるんだからあんまり気にしなくてOK
可能性に開かれっぱなし、というのは、乱暴に噛み砕くと、俺たちは”選択”をする際に実はそんなに物事を考えてないということです。
そういえば最近読んだ江國香織さんの小説「流しのしたの骨」を思い出しました。この小説では、19歳の少女の姉である人妻であるところの、やさしい「さよ」さん(だったかな)が非常にイノセントな雰囲気の中なんとなく三行半し、なんとなく離婚し、なんとなく前夫の間に出来た子供を産もうとします。スイーツ(笑)と一蹴されそうな気もしますが、非常にリアルだと思います。そして、可能性に開かれっぱなしというのは、そういうことだと思います。
(そのうち書評を書きたいです)
- 作者: 江國香織
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なかなか話が進みません。
インターネットの発達が達成した物事のうちのひとつに、誰でも自分の思っていることを発信できるようになった、ということが挙げられるのは自明かと思います。
そしてそれは、(所謂)ホームページ、BBS、ブログ、SNS、(そしてtwitter)と、より簡単になる傾向にあると思うのです。
するとそれぞれの人が考えていることがより発信されやすくなります。それはあるところでは、これまで決して明らかにされることのなかった情報も発信されうる可能性があります。
先ほどの言葉を持ってくれば、開かれっぱなしの可能性がさらに広く開かれるのです。
例えば誰も興味のない失恋話とか、深夜の作業中の自分のつぶやきとかのような、資本主義的に価値のない情報。そして今回のような、取締役が取締役の立場を離れて自社サービスのユーザーをバカ呼ばわりする発言(情報)。
(念のため書いておきますが、俺は梅田さんに対して腹を立てているわけでも呆れているわけでもありません。へぇーって思っているだけです)
■ 太陽がいっぱい
かといって、その傾向が別に憂慮すべきものであるようには、俺には思えません。
俺にとって、いや仮に世の中の多くの人から「どーでもよくね?」と思われてしまうようなまるで価値のない情報(例えば…このブログのような?)がネット上に蔓延しようが、それこそどーでもいいことだと思います。
(現在のネットの構造的に、価値のない情報がいくら蔓延しようと、それが俺たちの眼に入ってくる可能性は限りなく低いのです。だから文字通りどーでもいいのです)
それよりも、やはり単純に梅田望夫という偉い人の、これまでだったら絶対に垣間見ることの出来なかったようなつぶやきを見ることができるというのは、それだけでおもしろいことだと思います。梅田さんには悪いかもしれませんし、”おもしろい”の意味が邪悪だと思いますが。
そして、可能性が開かれまくりの状況だからこそ、これまで考えもしなかったようなよくわからない連鎖が生まれて、今回のコトリコさんのような素敵で文学的な文章がうまれるのではないかと思うのです。
もちろん、あのような素敵で文学的な文章の成立要因を全て外的要因に求めているわけではありません。書いた人本人の能力によるところが大きいのは自明です。
しかしながらやはり「素材」として、これまで考えられなかった新しいものが転がっているという状況はとてもおもしろいです。
じつは俺自身twitterは自覚的に避けていて、というのは、意味ありげかつとても短い文章を継続的に読んだり書いたりすることが俺にとってとても危険に感じられたからです。
ずっとまえにブログで”文章のカロリー”の話をしていましたが、結局短い文章には短いなりの、それなりの意味しか込めることができないのです。しかもそれだけならいいのですが、”キャッチコピー”というもののおかげで、俺のような弱頭は短い文章にとても深い、ありがたい意味が含まれているように錯覚しがちななのです。そのため、俺にとってtwitterは大した意味が込められていないのにすげー勉強したような気分になってしまう、悪魔のwebサービスなのです。
しかしながら、例えそうであろうと、俺とは違ってちゃんとした頭をもった人が俺の代わりにtwitterの誰かの発言を拾って、より密度のある文章を作ってくれるのなら、それはそれで有意義だなぁと思うのです。
そういう意味でも、やはり「素材」のばらまきによる可能性の開きまくりは”おもしろさ”を生み出すなぁ、と思うのです。
そして願わくばもうしばらく、可能性はもっと広く開かれる傾向にあってほしいと思う次第なのです。
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もしかすると、それはやはりもうしばらくの間、誰もが叩かれる対象になりうる、ということも含意しているかもしれません。しかし、それはそれで悪くないことかと思います。人格を叩くのではなく個別の言説を叩く傾向により傾いてくれる契機となる気がするからです。
(しかしながら、可能性の開かれた方向が”より精神的なつぶやき”、つまり「死にたい」とか、になってくるとそれはもはや言説でもなんでもないので人格叩きに走らざるを得ないのかもしれませんが…そのへんは考えてもずいぶん無駄な気がするので諦めます。杞憂ぽいですし)