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日記

学部を過ごした大学はメディアコミュニケーションみたいなのの教育が得意みたいなの宣伝していて,2009年の前期に単位の数合わせに「現代メディア論」っていう全国紙の新聞社の人がいろいろ講演するっていう講義を聞いたことがある.内容は近代メディア論だった.ウケ狙いでやっているとしか思えない感じ.

例えば事件の現場を一般人が携帯電話で撮影していてそれがマスメディアで利用されてるが,携帯電話で他人を撮影するのはプライバシー的に問題があるってベテラン新聞記者が話してて,そのあと同じ人が天安門事件での中国人たちの様子を撮影した写真を何十枚も紹介してて,えっじゃあこの人はこの中国人たちにちゃんと撮影と使用の許可をいちいちとっているのだろうか…と思わせるみたいなエンターテイメントが展開された.日程の最後は学生の間で発言者を募ってディスカッションをするっていう内容で,出席日数的に確実に単位落とされる自覚があったので手を挙げて発言した.

今後のメディアコミュニケーションはどうなると思うかみたいな議論で,今後は自分の望む情報を自分で細かく選んで自動で手元にたくさん届けられるメディアコミュニケーションがインターネットによって主流になる,とはいえ自分が欲しい情報だけ集めるっていうのはインターネット以前でも全く同じなんだけどな,っていう意見を述べた.そしたら朝日新聞の人は,あなたにはそれができるかもしれないけどそういう高度なことができるのはごく一部の人間だけなんだってコメントをくれて非常におかしな感じだった.そのあとはテレビ朝日内定みたいなアピールする学生の発言とかが展開された.おおーッとか声上がって,マジでみんなテレビ朝日とか就職したいんだ…とカルチャーショックを受けた.RSSとかも当然あるけど,TwitterやLINEやFacebookっていうのがそういうコミュニケーションを実現するメディアの現在までの決定版だっていうこと,たぶん今でも気づいていなさそうな感じ.そもそもインターネット以後の社会では新しいメディアコミュニケーションができる人間とできない人間っていうのが,持つ者と持たざる者の分別であって,それを高校の情報の教科書でデジタル・ディバイドって呼んでるだけど…っていう気持ちが朝日新聞の人からプレゼントされた.

ときどきこういうやつで,ほらやっぱり俺が正しかっただろうがと過去に向かって主張したくなって,それは非常にだめな感じ.でも多くの場合,自分の中で自然に沸き起こってくる考え,広告会社的用語みたいなのの「インサイト」と言ったほうが正確なニュアンスっぽい,自分の中に沸き起こったボンヤリとしたインサイトはだいたいいつも正しいと思う.それはおれ自身のことじゃなくて,人間の思考は本来かなり明確に本質を捉えるんだけど,それを日本語コミュニケーション用の日本語の論理的思考装置を通すと途端に本質を逃がしてしまいがちなんだと思う,だから「他人の言うことなんて聞くものではない」とよく言われる感じになるんだと思う.

人間の知性は論理より感情に宿っていると思う.