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夢からさめる際の興奮

 夢からさめる時におもしろいのは,夢のなかの現実の前提が,いずれも夢のなかにしか存在しない架空の存在であったことに気づいていくプロセスだと思う.別の言い方をすると,前提の現実性が崩壊していくプロセスを経験するとき,自分は,夢からさめつつあることに気づく.
 夢のなかでは様々な社会的活動を行うので,当然,そこには無数の社会的な前提や文脈のようなものが存在する.例えば,札幌の店でコーヒーを飲みながら,隣の席で死んだ祖母がiPad Proでパクツイ活動を行っているのを見ているという夢をみている.意識が覚醒するにつれて,次第に夢の世界にほころびが出てくる.札幌の店のはずだったが,その店は渋谷の神南に立地する店であったように思えてくる.しかし,この札幌の店は昔おじに連れて行かれた店だったのだから,札幌の店で間違いはなかろうと思い直す.さらに覚醒すると,そもそも札幌でおじに出会った経験などないし,神南にもそのような店は存在しないことに気づく.同時に,iPad Proなんて存在しないことや,隣の席の死んだ祖母は死んだ祖母ではなく,そもそも祖母はまだ生きていることに気づいた頃には,おおむね夢から覚醒している.
 こうした,自分が完全に信じ込んでいた世界観が,わずか数分間で崩壊していくプロセスを体験することに,一種のカタルシスのような快感がある.比喩表現としての「覚醒する」や「目がさめる」というのは,まさにこのことで,自分が絶対的に信じていた物事の虚構性が次々に明らかとなる様子を指しているように感じる.人間が得うる知的興奮は,こうした,世界観上における虚構性の発見を通じた前提の崩壊といえ,「夢からさめる」ことと通底しているようにみえる.あるいは,知的興奮であるようにみえて,ここでいう「覚醒」や「目がさめる」プロセスを伴わない快感は,実は,知的活動のようなことをしている自分の姿を再確認して得られる,現状肯定的かつ退廃的な単なる自己満足であり,むしろ知的興奮とはまったく逆のものかもしれない