自由と監視の両義性と○○性について

 ※新作の原稿がマジ遅々として進まなくて,じゃあ本来どんなこと書くつもりだったのかを,ブログに書くつもりでバーって書けば補助輪になって原稿やりやすくなるよなってなって,細かいことは無視して,さわりの部分だけバーって書いてみることにした.

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 監視社会化がすすんでいると言われている.

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 Webサイトを開けば無数のスクリプトが我々のPCのデータにアクセスを試み,収集したデータは我々の行動履歴を監視し,消費者プロファイリングに役立てる.シヴァ・ヴァイディアナサンは,我々はもはやGoogleを使わずには生活できない状況下にあり,Googleに個人情報を明け渡さずには生きていけないことを確認した上で,でもGoogleのサービスは個人情報の提供の対価として得られる「取引」であるというようなありがちな見解に対して,個人情報やプライバシーは,商品のように切り離して取引できるようなものではないと一蹴している.その通りであろう.ダニエル・ソロヴのように,プライバシー概念そのものを再考しようとする者もいる.忘れられる権利なんてのもあったね.

 スノーデンのように,巨大ネット企業による個人情報利用の背後には国家の思惑が存在するという見解も根強い.根強いどころではないかもしれない.昨年は米中貿易戦争を文脈の一つとしてファーウェイの幹部が逮捕されたが,これは同社が米国民の個人情報を収集し中国政府当局に提供しているという嫌疑によるものであった.中国では,従前のコネ社会や裏金社会からの反動のなかで,アリババによる,個人の信用情報を可視化するサービスや,国家による国民の点数評価が広く受け入れられ始めている.バルト三国も国をあげたICT大国地域として知られるが,それは監視社会化と表裏一体である(バルト三国でそれが受け入れられているのは,ソ連からの独立からまもないベンチャー国家であり,それゆえ国家機構への国民の信用が高いことによるとされる).監視社会化は国際問題という側面も持ちはじめている.

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 SNSに書き込んだ内容(あるいは,書き込まなかった内容)はすべて他者に監視され,likeやRTの数によって評価される.SNSアカウントを持っていなくても,われわれの日常行動はスマートフォンを持った他者によって監視されている.我々のどの行動が,いつ,だれによって,どのように監視され,どのようにSNSに書き込まれるのか,自分では予想できない.バイト先でモラルに欠けた行動をした時だけでなく,ごく常識的な行動をしていたとしても,それを「モラルに欠けた行動」としてSNSに書き込まれる可能性を我々は否定できない.そのSNSの書き込みもまた,それが事実なのか作り話なのか,フェイク動画なのか,あるいは「likeをするに足るpostなのか(そのpostをlikeをしたと他人に知られても構わないのか)」ということが監視されて,つねに評価の目にさらされている.

 例えば渋谷に出かけようとする.そのとき我々はネットで「渋谷 カフェ おすすめ」を検索する.画面に映る全てのカフェは,「口コミ」や☆の数,どこかのライターの「レビュー」によって監視されている.しかし,その口コミやレビューもまた,それが信用に足るものなのか,閲覧者から監視されている.Amazonで物を買うのも同様である.さらには,こうした監視が,イーライ・パリサーのいう「フィルターバブル」つまり自分が見たいものしか見られない情報環境と表裏一体であるという指摘もある.

 「SNS映え」「インスタ映え」という概念は,それが称揚されようが無価値と見られようが,いかに我々の生きる社会が相互監視社会であるかを象徴している.

 鈴木謙介は,こうした状態におかれた我々の社会的心理を「見て欲しいように見てもらっているかどうか不安」と端的に表現した.「見てもらっているか不安」「見られてしまっていないか不安」という問題は過去のものであり,「見られている」ことはすでに前提である.ここでは「見られ方」のコントロール性(あるいは,その不可能性)が問題なのである.

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 つまりネット社会における監視社会化は,二重の監視社会化として整理できる. ①巨大ネット企業(あるいはその背後にある国家)による,プロファイリングを目的とした市民=消費者の監視の拡大(管理社会化)と,②ICTを手にした市民が,①のネットサービスを用いることによる,市民の市民に対する監視の拡大(社会的相互監視)である.

 たぶん①は,グローバル化や,それによる1648年以来のウェストファリア体制と国民国家の瓦解(国家が国民のものではなくなるという恐怖/期待)と,それへの抵抗であり,②はボードリヤールのいう大衆消費社会やハイパー・リアリズムの文脈にあると位置づけられるだろう.でもたぶん明確には分けられなくて,重複がある.

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 いずれにせよ,こうした監視社会化を悪として,個人情報を明け渡すな,自由な個人でいるべきだ,というような抵抗運動は,一般言説においてかなり多く見られる.ローレンス・レッシグアーキテクチャ論は,それを必然とするような考え方と言えるのかもしれない.GAFAM(google, apple, facebook, amazon, microsoft)を一切使わずに生活するという無謀な企画をネットメディアで見たが,そんなことが可能なのはリチャード・ストールマンくらいだろう.あとたぶん企画者はAWSとかAzureとか知らない.AkamaiCISCOはどうなるんだろう.ちなみにストールマンは携帯電話のことを Portable surveillance and tracking device って読んでて,お前ら電源を切れって要求してくるなど,さすが気合の入り方が違う.

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 なお,おそらく,こうした監視社会批判の一つのルーツは,池田純一が指摘したように,インターネットの技術を発展させてきた技術者たちの文化的ルーツが,本人たちが気づいているか否かは別として,ヒッピー文化にあるからであろう.インターネット前夜のハッカーカルチャー全盛期において,コンピューターはヒッピー文化におけるドラッグのように,自分の身体を既存の社会秩序から切り離すと同時に,身体を拡張させるものとして位置づけられてきた(余談ながら,こうした池田の観点を知ったのは大学生の頃だったけれど,今思えば,我々の社会の外部に「出現」したかのように扱われがちなインターネットを,ヒッピー文化という,既存のアメリカ社会の変化の延長線上に位置づける視点は,極めて斬新かつ説得力があると思う).

 つまりインターネット社会は,何者にも縛られてはならない文化のもとで成立している.だから監視が手厳しく批判される.アイザイア・バーリンによる「自由」概念の区別,「積極的自由」と「消極的自由」は大変有名だけど,これを敷衍するなら,ネット社会は消極的自由が最重要視される価値観のもとで技術的に作られてきたが,その技術は結果的に消極的自由を脅かしている,と言えるのかもしれない.

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 (身体を拡張するはずのインターネットが,「身体の消失」という電子的監視を生み出したことは皮肉であろう.監視とは,近代化にともなう「身体の消失」をメカニズムやテクノロジーによって埋め合わそうとする社会的実践であるが,「身体の消失」を埋め合わす行為は再帰的に身体を消失させる.電子的監視のもとで監視されるのは我々の身体の一部(顔や網膜や指紋やDNA)や,身体行為の一部(キーボードで入力した記号や音声や動作)であり,監視は身体の断片を監視する.本来の自明な「わたし自身」たる身体の総体は,実は監視の対象として必要とされていないし,監視することができない.ではしかし,「わたし自身」たる身体の総体を監視できる主体は,この世に存在するのだろうか?じつは監視社会論の出口は,その主体を「神」にもとめるところにあるとも考えられている.今日の監視社会論は,あまり知られていないが,宗教社会学者が骨子を作ったのである(デヴィッド・ライアン).Googleを神として扱う論考も,一般メディアでたまに見るけど,それは神をメタファーとして扱っているのであって,そうではなくて,純粋な神そのものを監視の外部に置く考え方がありうる,らしい,なんとなくわかる気もするが…)

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 さて,しかしながら,世間一般で見られる,いや学術界においてもしばしば見られる監視社会批判論は,説得力に欠けざるを得ないというのが趨勢である.筆者もその立場である.その理由は,第一には,ストールマンでもない限り,ほとんどの人にとって監視を避けて生きることはすでに不可能だからである.したがって,監視社会批判論は,理念的には正しいとしても,あるいは思考実験としては役立つとしても,現実的にはあまり機能しないと言われざるを得ない(監視社会が法学者と社会学者を中心に論じられてきたことによる必然的死角なのかもしれない).

 第二には,便利だからである.Google検索やSNSをはじめ,監視の対価として得られるサービスは便利なのである.単に必要であること以上に,我々の生活を便利で豊かにしてくれている.その功利の前で,単純な監視社会批判は空転せざるを得ない.食べログを見ずに飲食店に行くのはもはや好事家の蛮勇である.食べログのクチコミや評価は操作されているかもしれないが,我々はそれが操作されていることを自明視して役立てている.

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 例えばSNSのユーザーは確かに監視されているが,監視され他者に評価をされ,likeやRTがなされたりなされなかったりすることは,自身の行為の妥当性を測るための,ものさしとして機能する.ジグムント・バウマンは今日の社会状況を「リキッド・モダニティ」と形容する.つまり既存の秩序が溶解し,社会生活における戦略や選択の妥当性を決定する「正解の枠組み」がだんだん消えていき,かつ新たな枠組みというオルタナティブも見えてこない混迷した今日において,監視され,他者評価のまなざしにさらされることは,我々が「自由」に「自立」して「自分の価値観」で生きようとするうえで,有用なツールとなるのである.

 今の時代は,もはや「おしゃれなごはん」を食べようとしたときに「イタ飯」に行けばいいという最適解が存在する時代ではないのである.どこに行ってもいいのである.松屋でもいい.個人が自由に決めていい.就職先もそうである.大企業に行けば幸せな時代ではないからリクナビで自由に会社を選ぶ.しかし哲学や社会学で何度も指摘されてきたように,「自律的に自由に意思決定できる個人」なる存在はフィクションに過ぎないのである.我々が「自由」に選択するためには,補助線となる枠組みがあったほうが楽なのである(エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』的な).そしてソーシャルメディアを介した他者評価は,うまくつかえば,補助線として極めて有効に機能する.

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 そもそも,なぜ監視社会批判論は空転してしまうのか?

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 監視社会論の第一人者であるデヴィッド・ライアンは次のように指摘している.

 監視論においてしばしば引用されるのが,ミシェル・フーコーパノプティコンである.フーコーパノプティコンを,近代を成立させた権力装置の理解のメタファーとして用いた.しかし,フーコーパノプティコンは今日の監視社会を理解するメタファーとしてもはや十分に機能していない.にも関わらず,監視を論じる者たちがフーコーのフォロワーでしかないことが,監視社会批判の空転の理論的原因である.

 どういうことか.論点は2つである.第一に,フーコーパノプティコンには元ネタがあって,ジェレミーベンサムパノプティコンであることが知られている.パノプティコンでは,監視棟に立つ監視者は囚人を見ることができるが,囚人は監視者を見ることができない.だから監視者はたとえ監視していなくても,囚人は被監視者として振る舞わざるを得ない.このように監視を身体化させる権力の作用が近代の有り様であるとフーコーは説明した.ここでパノプティコンは,監視する/される場として扱われる.しかしながらベンサムパノプティコンは同様の建築構造を持つものの,監視という行為には,「配慮」という次元があるとされた.すなわち監視されているということは,見守られているということでもある.囚人が脱走という悪事を働かないように監視しているということは,同時に,脱走という悪事を働いて「しまわない」ように,「囚人のために見守っている」ということも意味するとベンサムは考えていた.

 登下校中の小学生にGPSトラッカーをもたせるようなものである.GPS端末を持たされた小学生は,親から監視されているわけであるが,それは同時に,見守りという「配慮」でもあるのである.

 ライアンは,「監視」と「配慮」は本来,表裏一体であると説いている.そしてフーコーパノプティコンでは,近代化や権力作用を説明するために,配慮の次元が捨象され,監視の次元のみが結果的に強調されてしまったとする.それゆえフーコーの枠組みを用いる限り,監視は「個人の自由を束縛する悪」としてしか理解できないのである.無理のある監視社会批判論は,フーコーの枠組みで今日のネット社会の電子的監視を理解しようとしてしまっているがゆえのものである.

 ライアンのこの考え方は発表当時あまり理解されなかったようだが,いち早くこの本質を見抜いたのは,失礼ながら意外なことに,東浩紀だったそうである.東は,2000年代前半の当時からみて,将来のネット社会は本質的に相互監視社会でしかありえないのかもしれないと述べていて,正鵠である.

 第二に,ライアンとともにジグムント・バウマンも述べるように,フーコーパノプティコンの前提についてである.フーコーパノプティコンでは,監視する者とされる者との関係が明確であることを全体としていた.つまり監視棟に立つ監視者は権力者であり,監視される囚人は囚人でしかありえない.囚人が監視者を逆に監視するということはなかった.そして監視者は,強い力を持つ少数の主体が,つねに囚人のそばにいる,そういう存在であった.ジョージ・オーウェル1984のビッグ・ブラザーもそういう存在だった.でも,今日の監視社会では,この前提は明らかに成立していない.

 ソーシャルメディアの例でわかるように,ユーザーがユーザーを監視しているのが今日の監視社会であって,いわば囚人が囚人を監視している.また政治家や著名人の「炎上」が示しているように,囚人が権力者も監視している.

 ソーシャルメディアだけでなはく,巨大ネット企業によるユーザーの監視も同様である.巨大ネット企業による監視は,確かに権力者が囚人を監視していると言えるが,我々は日々,複数の巨大ネット企業のサービスを利用している.「強い力を持つ少数の主体による監視」という前提は成立しない.また我々はGoogleに監視されているとしても,ではネット上で監視しているその「Google」とは,どこにいるのだろうか?シリコンバレーにいる人々が直接我々を監視しているわけでもない.日本支社でもない.というか,どこの人間が実際に監視しているのか我々には分からないし,たぶんGoogleの人にもそれは分からない.もっといえば,たぶん監視しているのは人間ではなくアルゴリズムであり,監視はしているのだが,実際に監視している主体は存在しない(これをもって,「監視していなくても監視が機能する」というフーコーパノプティコン論が適用できると考える向きもあるようだが,アルゴリズムによる監視では,実際に監視は行われているのであって,その意味でもやはり異なっている).

 筆者は「BIG DATA IS WATCHING YOU」と書かれたTシャツを持っているが,監視者としてのビッグデータは,フーコーパノプティコン的存在であるビッグブラザーとは本質的に異なるのである.なので「そうじゃないんだよな〜」って思いながら着てる.

 

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 さらに,ライアンの監視社会論のユニークな点は,社会それ自体が監視によって成立しているという考え方である.

 我々が人間同士の社会的に関わり合って社会を成立しているわけだけど,社会を成立させるためには,人間同士の信頼が必要であり,信頼を醸成するためには監視が必要であり,相手が信頼に値する存在なのか,どの程度信頼できるのか,信頼を裏切るような行為をしていないのか,監視することになるというのである.そして,テクノロジーが存在しない前近代社会では,こうした監視は身体によって,つまりFace to Faceのコミュニケーションによって行われていたが,近代化とテクノロジーの発達によって,社会は身体を介在しなくなった.つまり電信,電話,テレビ,ネットというように,遠隔でのコミュニケーションによって社会が成立するようになった.すると身体を介した監視が行えないため,信頼が成立せず,社会が機能しない.それを埋め合わせるために,テクノロジーによる電子的監視が広がったのであると,ライアンは整理している.非常に整合性の取れた監視の位置づけだと評価したい.

 ここでは,日本の代表的なライアン研究者である野尻洋平がいうように,「監視をコミュニケーションの地平において捉えている」のである,地平ってよくわかんない言い回しだけど,つまり監視というのは一種のコミュニケーションなのであって,コミュニケーションというのは人間が本来的にずっと行ってきた社会成立の基本要素なんだよっていうことである.

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 つまり監視されることによって得られる自由があり,自由を得る対価として監視が存在する.

 ネット社会化によって我々の選択の自由は格段に広がったが,その自由を行使するためには,必然的に二重の監視を是認せざるを得ない.逆に言えば,監視されることによって,選択の自由は格段に広がる.ライアンは監視は配慮と表裏一体であると説くけれども,筆者は,自由と監視が表裏一体なのだと思う.監視を理解することは,我々がどれほど自由であるのかを理解することを意味する.

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(個人が個人として自由に伸び伸びと生きられる社会にすべき,もっと個人の自由を尊重すべき,というような意見が,ここ数年,ネット上で目立つようになってきたと思う.筆者もそう考えていた.けれども,では個人の自由って何?個人が自由であるってどういう状態? そういう問いはあまり見られないように思う.現在の筆者は,個人の自由なるものがこの世に存在するとは信じきれない.自分の頭で考えて行動する,自律的で自由な意思決定を行う個人というのは,歴史的時空としての近代の成立要件であるが,大げさに言えばナチスや翼賛体制のように,我々は自由な意思決定によって不自由を獲得した(大政翼賛会治安維持法政党政治が抜群に機能する中で成立した).大屋雄祐が言うように,自律的で自由な意思決定を行う個人なるものは,フィクションに過ぎないのであって,しかしそのフィクションは現状では信じるに足るフィクションであると評価されているから,個人が尊重される社会がとりあえず存在しているのにすぎない.個人の自由を理解するためには,フィクションとしての個人の自由が「どの程度フィクションなのか」を理解すべきだと思う.つまり監視を同定した上で,人間の選択行為から監視を引き算することで自由が理解される.自由とは監視との差分でしか存在し得ないと思う.過度で純朴な個人の自由信仰には危険な雰囲気を感じる.監視を引き受けない自由は,自由ではなくデカダンスというべきであろう.)

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 だから考えないといけないのは,表裏一体である監視と自由のバランスである.

 確かに強硬な監視社会批判には説得力がない.しかし,監視と配慮(自由)が表裏一体であると言っても,ではそうであるから巨大ネット企業のユーザー監視や,ユーザー間の相互監視を無批判に我々は受け入れるべきである,という考え方にも組みするべきではない.我々が考えないといけないのは,監視がフーコーの言うような固定的なものではなくなって,監視が流動化し不可視化しているとしたうえで,ではその結果として結局だれがどう監視しているのか,その監視構造そのものを,社会の諸位相において,監視に関わる人々がどのように評価しているのか,という具体論であろう.

 ライアンにもバウマンにも欠けているのは,監視の○○性という,社会学にも法学にも本質的に欠けていて,かつ人間の存在においてもっと基本的な視点である.監視の○○性を論じることによって,流動化する監視を理解し,結果として,様々な○○の中で生きる我々がいかに自由であるのか,ないのか,その蓋然性を把握することになるだろう.○○に何が入るのかは秘密です.日々こんなこと考えて書いてるだけでお給料もらえるなんてつくづくすごい状態だな……