日本は遅れてる
「日本は諸外国に比べて遅れている」と昨今よく耳目にする気がします.日本で生きている実感レベルでも,たしかに日本は「遅れている」とそれなりに思うのですが,ずっと違和感がありました.日本は「EU」とか「アメリカ」とか「カナダ」とか「中国」といった,特定の海外の国や地域から遅れている,という理解は妥当なんだろうかという違和感です.これは空間の水平的な差異に着目する枠組みで,日本は水平的に遅れているという理解です.しかしあまり知られていませんが,空間には垂直的な差異もあります.
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いま世界で起きている大きな動きは,グローバルな空間とローカルな空間との垂直的な乖離です.
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ニクソン・ショックによる変動為替相場制の成立は冷戦崩壊に先んじて金融革命を引き起こし,国家間,地域間の相互依存的で不安定なグローバル金融ネットワークが形成され,金融の情報化とあいまって,カネが世界中を飛び回るマネーフローの世界が作られました.それを前提に冷戦崩壊を背景とした資本主義市場の拡大,多国籍企業の勃興,航空交通ネットワークの廉価化と拡充が進み,こうした動きが「グローバリゼーション」「経済のグローバル化」として理解されています.
しかしグローバリゼーションとか経済のグローバル化というと,世界の様々な国や地域が相互に頻繁・密接に結びつく,というイメージで語られがちですが,今起きているのはそういうことではありません.その相互結合の結果として,仮想的な「グローバル空間」が形成されるというイメージです.すなわち,グローバルなマネーフローや人の動きや企業活動が、グローバル空間をただ飛び回るだけで,それらの諸資源がローカル空間,すなわち現実の社会経済行動が行われる現実空間と結びついていかない,その結果として,地球上のほとんどのローカル空間が置き去りにされて「遅れて」いっているという状況です.スーパーグローバリゼーションとかハイパーグローバリゼーションって呼んでいる人もいます.
情報社会を論じる上で不可避的な存在であるスペインの社会学者マニュエル・カステルは,こうしたグローバル空間を、「フローの空間space of flows」と呼びました.フローの空間にあるのはまさにフローでしかない,カネもヒトも,フローでしかないから.現実のローカル空間に結びついていかないということです.とてもいいネーミングですね.
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つまり日本が諸外国に遅れているのではなく,たぶん中国もふくめどの国も,グローバル空間に対して遅れていると見られます.したがって,仮に「滅びゆく日本」を見捨てて海外に活路を見出そうとしても,現実に我々が生活を営むのは,仮想的なグローバル空間ではなく現実のローカル空間ですから,結局は多かれ少なかれ、「滅びゆくどこか」のなかで生きざるを得ません.ローカル空間の衰退には地域差すなわち時間差があるので,その時々において自分に都合のよいローカル空間を選んで生きる,ということもありえます.しかし現実としてローカル空間や社会制度はそのような生活を前提に設計されていないから,それはそれで生きにくそうに見えます.仮にそうした「フローとしての生活」をしたとしても,フローはフローなので,ローカル空間と再結合して「ふつうの生活」を再構築することもまたむずかしいだろうと思われます.
結局,われわれの目から見て「進展」しているように見える地域や社会は,どこかのローカル空間の中のスポット,点にすぎません.グローバル空間に諸資源を吸い上げられて衰退していくローカル空間のなかに,ごくわずかの点だけが進展しているように見える,しかし,結局その点の資源も「フロー」にすぎないので,いつまでその進展が続くのかは未知数であると言えます.一時的なバブルなのではなくて,構造的にそうだということです.
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今日さまざまな分野で問題とされているのは,このように乖離したグローバル空間はいかにローカル空間と再結合されうるのか?ということです.かならずしもフローの空間としてのグローバル空間がローカル空間を一方的に変質させているだけではなく,ローカル空間からグローバル空間への「異議申し立てprotest」やグローバル空間のローカル空間への「埋め込みembeddedness」もさまざまな領域で認められはします.オランダの経済学の大家 Peter Nijkamp は,Globalization と Localization は一つの現象の両側面だと看破しています.だから Glocalization という表現も見られますね.グローバル空間が強まっているからこそ,グローバル空間がフローの空間になっているからこそ,じつはローカル空間の意義が重要視されています.
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やや話が変わりますが,「24時間働いて会社のために尽くす」という価値観に,われわれの世代から疑問が出てきています.われわれの世代にとってその価値観は「遅れている」のであり,「金もそれなりに大切だけど,会社に尽くしても会社はなくなるし,自分の力で働いて,精神的にも豊かにゆとりのある生活をしたい」みたいな価値観が「進んでいる」のではないかと思われます.しかしいずれの価値観も,おそらく自分や自分の大切な人間を守るための規範として機能していた,しているのだと思われます.「遅れている」価値観は,かつて「進んでいる」のであったし,いずれも目指すところは同じだったのではないでしょうか.たぶん会社に尽くす価値観は,1960年代前後の時点では「農村社会ではなく企業社会に属する方が効率がいい」という意味でスマートだったのではないだろうかと感じられます.両者の価値観に優劣はないと見えます.にも関わらず会社に尽くす価値観が「遅れて」いったのは,その価値観が良くも悪くも戦中の地域共同体的制度を前提に………すみません話がまとまんないんで話飛ばします
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結局,個人としてどう生きうるんでしょうか.重要なのはローカル空間に根ざして生きられるか,ということだと思います.グローバル空間を目指すこと,グローバル人材になること,国や地域に縛れずに生きるといった「現代的」な価値観は,グローバル空間が仮想的なフローの空間でしかないことをふまえると,確信は持てないけれど,虚構なように見えてきます.
逆説的ですが,これは日本で生まれて日本で死ね,海外に出ていくのは無駄,という話ではありません.どこに出ていったっていいし日本にいたって,日本のどこにいたっていいけれども,どこかの場所で,何らかの方法でローカル空間に根ざすことが求められるのではないか,という考え方です.
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「日本ダメだ論」みたいなものが急速に浮上してきたように見えていました.日本は諸外国に遅れている,グローバルスタンダードに対応できていない……,そういう側面もかなりの程度あるとは思いますが,極端な「日本ダメだ論」は「世界から褒められる日本」のような「日本スゴイ論」と表裏一体であるように,なんとなく見えています.つまり「日本というローカル空間に特有の特性を冷静に見極めていない」という,一枚のコインの表裏なのではないか.母国に対して批判的になること自体は重要だけれども,いま散見される批判は「批判(人間の知識や思想行為などについて,その意味内容の成立する基礎を把握することにより,その起源妥当性限界などを明らかにすること…kritik)」なんだろうか?極端な母国悲観論は最終的に実現可能性の薄い極端な解決策を求めようとすることは,歴史も証明しています.
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空間を,水平的にではなく,垂直的に分けてみようという,一つの視点でした.
「自由時間」について
駒澤大学の広告にとてもいいことが書いてあったので、以下全文を転記します。
自由時間は、
なぜ、必要か自由時間、というと何を思い浮かべますか。スマホでゲームをしている時間?それとも、友達とカラオケをしている時間でしょうか。古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、幸福は自由時間にこそ存在すると主張しました。この考えを後世の経済学者たちが批判しながら継承し、すべての経済活動や科学の発展は、労働時間を減らし、自由時間を増やすためにある、という真理に行き着いたのです。しかし、現実はどうでしょう。技術の進歩によって短時間でモノがつくれるようになっても、人々の労働時間は減るどころか、むしろ増えてきました。そうやって生み出された価値を人口のごく一部が独占し、多くの人は貧困や荷重労働に苦しんでいます。現代社会では所得だけでなく、自由時間にも大きな格差が生じているのです。
自由時間はギリシア語で「スコレー」といい、これは「スクール」の語源です。社会に目を向け、人と議論を交わし、思索を深めることで成長していく。その場所こそが学校であり、その時間こそが自由時間に他なりません。貴重な貴重な大学四年間、ぜひ、最高の「自由時間」を過ごしてください。
筆者は、大切なのは「自由時間を作る」ことだと思います。大学にしか「自由時間」がないのではない。「自由時間」を日々の生活のなかでいかに作れるか、これこそがわれわれ人間の知性の源泉であると思います。
構造主義で作るおいしいカレー
知の三段階
今日、人間の知は次の三段階に分けられます。
- 事象の収集(何があるか)
- 事象の理解(本質は何か)
- 事象間の関係化(どう位置づけるか)
人間の知に「関係」の理解という第3段階を追加したのが構造主義です。構造主義とは、事象そのものの本質よりもそれを構成する要素間の関係、つまり構造に着目する考え方です。
カレーと構造主義
ところで、カレーの本質とは何でしょうか。ルウの存在?スパイスの存在?ブイヨンにカレー粉をまぶしたもの?……カレーという概念をあらためて吟味すると、じつに「ふれ幅」の大きな概念だということがわかります。結局のところ、カレーとは、「カレー的なスパイスをつかった料理」くらいにしか説明できません。「インド料理をすべてカレーと呼ぶことは、日本料理をすべてしょうゆ料理と呼ぶようなもの」とよく言われます。「カレー」の概念的実態は、使い手によって異なる、曖昧で変動的なものと言えます。
カレーの概念が変動的だということは、それに連動して、カレーの作り方も変動的だということです。世の中に「おいしいカレーの作り方」が無数にあるのは、カレーの概念がファジーであることに起因します。そのため、おいしいカレーを作るには、「おいしいカレーとは何か?」という、上記第2段階の表面的な問いでは、カレーそのものがファジーな概念ゆえに、有効な答えを出せません。問いの立て方がまちがっています。
おいしいカレー作りに必要なのは、カレーの「飾り」を排除した根幹構造の理解、すなわち「カレーの構造とは何か?」という問いです。「隠し味」や「コツ」や「スパイスから作る方法」を知ること、ではありません。「カレー的なもの」を作るのに最低限必要な要素を抽出し、それらの関係を理解するアプローチです。この構造主義的アプローチをとることにより、いまわれわれは正統的でありつつも既存の概念にとらわれないカレー作りを可能とするのです。
カレーの構造
カレーに最低限必要なのは以下の諸要素です。
- とろみ要素
- 味付き水溶液
- カレー的香辛料
- 炭水化物
これらは、例えば次のように具体化されます。
カレーは、以上1,2,3,4の順番で用意し、水分を飛ばして味を濃縮させながら混合すれば、最低限成立します。これがカレーの構造です。
構造主義的につくるカレー
したがって、上記の構造に沿って作れば、やや変則的な作り方をしてもカレーはカレーとして完成します。先日、筆者はここまで書いたことに着想して、やや変わったカレーを作ってみることにしました。材料は2人分です。
1.とろみ要素
- 長ネギ 1本
- 小麦粉 大さじ1弱
- バター 10g
- オリーブオイル 大さじ1強
刻んだ長ネギをバターとオリーブオイルで炒め、小麦粉を加えてさらに炒めました。小麦粉は結果的にやや多すぎました。小麦粉はこの段階で入れないとダマになります。
ネギを焦がしてるのが分かります。よくカレーのレシピで「タマネギを焦がすな」「飴色にしろ」とありますが、感覚的には誤差です。構造にも無関係です。*1*2
2.味付き水溶液
- 牛乳 200mlくらい
- ブイヨンキューブ 1欠片の半分
- ウスターソース 小さじ1弱
- 人参と肉 好きなだけ
牛乳をベースに、ブイヨンキューブとウスターソースも入れました。良いウスターソースには、良いブイヨンの材料が凝縮されているので、隠し味につかうと味を一気に洋風に寄せられます。これらでブイヨン風の味付き水溶液を作ることで、カレー全体を欧風カレー側に寄せます。*3
今回は色要素として人参を入れました。構造主義的に重要なこととして、人参はカレーの構造に関係しません。よってレンジで熱だけ入れて、好きなタイミングで入れます。構造に無関係な具材は、構造に無関係ゆえに、すべて好きなタイミングで入れられます。
このあとで鳥もも肉も入れました。
カレーと肉の関係も重要な論点です。結論を先取りすれば、肉もカレーの構造に無関係です。肉は煮込むと味が抜け、水溶液に滲出します。肉の味をカレーに強く付与したくても、単に煮込むだけでは水溶液に滲出した肉の味はスパイス等に消され、味の抜けた肉が残るだけでしょう。肉の味を強く押すならば、ブイヨンを牛骨や挽肉から本格的につくること、すなわち味付き水溶液の味を肉側に寄せる方が、構造的に正しいアプローチといえます。
カレーの構造において、肉はトッピングに過ぎません。筆者はいつも別のグリルで焼いた肉を後のせします。今回は見た目の面で混ぜ込みたかったので、グリルで焼いておいたものをこの段階で投入しました。この時点で火を止めるので、一切煮込みません。
3.カレー的香辛料
スパイスはしばしばカレーの根幹的存在として位置づけられ、どのスパイスをどれくらい入れるかが議論されます。しかしながら、構造主義的には味付き水溶液や炭水化物と同列の、一つの要素にすぎません。スパイスのこだわりは味を左右するものの、適当に入れても問題ない存在でもあります。今回は火をとめてから、色づけにターメリック、香りづけにコリアンダー、辛さづけにカイエンペッパーを入れました。*4
ただし、ここで市販のカレールウやカレーペーストをつかうのは避ける必要があります。なぜかというと、これらはとろみ要素や味付き水溶液と重複する存在なので、このタイミングで使うと、カレーの構造を破壊するからです。ルウやペーストは、カレーの構造に沿っていません。それらをつかいたければ、パッケージの裏に書かれた手順で作るのが最善であり、その手順はカレーの構造とは異なります。*5*6
なお、今回は華やかなオレガノも入れました。インドカレーや欧風カレーにはない、華やかな香りを加えることで「変則的」感を強調できます。カレーの構造とは無関係です。
最後に塩を入れます。塩分濃度で最終的な味を決めます。なにか味が足らないと思ったら、スパイスではなく塩を追います。追いすぎたら水で薄めます。これは構造とは無関係の「コツ」です。
4.炭水化物
- 米 2合弱
- バター 10g
- ターメリック 小さじ半分
硬めに炊いたバターライスにしました。
完成
これです。趣味でパセリと胡椒をかけました。構造には無関係です。
ふつう、スパイスから欧風カレーやインドカレーを作るときは、上記に玉ねぎやトマトを入れ、肉を煮込み、スパイスにクミンも入れますし、牛乳はこんなにたくさん入れません。しかし、それらのことはカレーの構造には無関係なので、無視しても、おいしくて、かつカレーらしいカレーは完成するということです。食べた人はおいしいと言ってました。筆者も食べましたが、おいしいです。
構造主義的アプローチの意義
重要なのは、上記のレシピが良い、ということではありません。カレーの構造を理解すれば、失敗を避けながらオリジナルかつ正統的なカレーを無限に構想できる、つまりおいしいカレーの幅が広がるということです。
あと最初に書いた構造主義の話はウソです。頭良さそうに見えるかなと思って書きました。つか、たかがカレー作んのにこんなクソ長い上にダルい記事誰が読むんだ???作り方のエッセンスはほぼ id:UDONCHAN さんの記事と同じだし、解説もよっぽど丁寧かつ実践的です。マジそちらを読みましょう。 本稿は時間の無駄。
今後の課題など
つづく問題は当然、「カレーの脱構築 」であるわけですが、これは「脱構築」自体が概念的に定式化されていないため、当面不可能です。
あと本稿は渋谷でうたプリ広告を待ってる間に下書きしました。
※念のため付記しますが、筆者は読者諸賢の「あたしがしってる本当の構造主義」とか、ほかのなんとか主義とか、ホンマ、ホン〜マ興味ないんで、、、、ホンマ、、、頼む、、、、
そういえばスープカレーっていうのもあったな、、、
— 快適な生活 (@Kaiteki) 2016年6月25日
*1:タマネギを焦がさず飴色にするのは、いわゆるメイラード反応的な「香ばしい甘さ」を出すためと考えられます。これを筆者は焦がしつつの白砂糖投入でスルーできると考え実践しています。
*2:それから、おそらくネギ類は不要です。とろみ要素の本質は小麦粉であり、ネギ類は「つなぎ」だと思われるからです。ネギ類は「あった方がいい」程度の存在ではないかと疑っています。
*3:ウスターソースは味のブースト要員なので、なくてもよいです
*4:趣味として、スパイスは削る方向で考えています。コリアンダーも削りたいところです。
*5:つまりルウやペーストで作るインスタントなカレーは、カレーという概念全般の中では、構造からほぼ外れた、かなりの異端であるということです。
*6:蛇足ですが、高級なペーストならともかく、市販の固形ルウをつかうメリットは皆無です。「もうやんカレー」の店舗では、固形ルウで作ったカレーは「油丼」であるといったことが書かれていますが、これに強く同意します。固形ルウで作るカレーは、現代日本の家庭料理によく見られる、消費者を飼いならす目的で生産された「作られた伝統料理」の代表例です。
論文を書き、プールで泳ぐ
プールと私
プールいかなさすぎて身体ガタガタになってきた
— 快適な生活 (@Kaiteki) 2016, 1月 25
- プール行ってる
- 毎日3時間書いたら、プール行って、1時間弱泳いで、スーパーで買い物して帰る
- だいたい、週に3-5日くらい行く
- プール行く人生(?)にしてみたいと思ったからプール行くことにした
プールをめぐる制度
- やばい時ほど毎日プール行く
- それが重要
- 2015年初夏〜初冬は、博論を含めて4本並行してひたすら論文書いたり*1、ウルトラガチ(?)なプレゼンテーションが何回かあったりしたので、その時期はとにかくプール行きまくった
- なんかおかしいと思ったらプール行く
なぜプールか?
- プール、なんか状態(?)がニュートラル(?)になる感じ(?)がする
- プール行かない日がつづくと身体やメンタルに違和感でてくる
- るろうに剣心、緋村剣心は華奢な身体でやばい剣術やりまくったため次第に身体ガタガタになっていくんだけど、それ思い出した
- とくに才能(?)とかない人間なので、毎日集中して研究とかしてると、身体とメンタルが異常なエリア(?)に引っ張られすぎて、悪影響(?)が出てくる(?)みたいな雰囲気
- プール行かない日がつづくと、「研究やだな〜」みたいな思いが出てくる(実際はやじゃない)*2
- プールに行くことで、身体とメンタルを普通にして、論文書く気持ちを無意味に縮減させずに済む
- つか別にプールじゃなくてもいい
なお博士論文の面接審査(1対5、時間無制限一本勝負、ガチ)の前日と前々日もプール行って1600mづつ泳いだし、面接後もプール行こうとしたら指導教員に「たまには飲みにでも行こうか?」って誘われて「チッ」って思いました(楽しかったです)
— 快適な生活 (@Kaiteki) 2016, 1月 25
泳ぎの内容
- 準備
- ゆっくりクロール50m、バタフライ50m(肩をならす)、けのび(一回で12.5m)
- 本番
- 2.5分でクロール100m*4
- 100mを2分で泳げたら30秒だけ休んで次の100mを泳ぐという制度
- クイックターンはしてもしなくてもいい
- それを4セット(計1600m)
- 最近はヒマになってきたので、2セットとか3セットに減らした
テクノロジーなど
想い
- クロールは軽めの6ビートで泳いでる
- 筆者は2015年に本格的にプール行くまで、知識水準が中学校の水泳授業で止まってた上に、さほど体力ないので、おぼれ死にそうになりながら200m泳ぐのがやっとみたいな状態だった
- 2ビートとか6ビートとかまったく知らなかったし、キックはバタ足って呼んで無秩序にバタつかせるものだと思っていた
- しかし筆者がいま手にしているインターネットはすごくて、インターネットで調べると、最先端の水泳理論とか泳法についてたくさん学べるし、YouTubeの水中映像や、教えてグー(?)の体験談などで分かりやすく知識を得ることができる
- 水泳学習めっちゃおもしろくて、毎晩インターネットで水泳知識を仕入れて、翌日それをプールで試して、その反省に基づいて新たな水泳知識を探して考えて理論構築して…という繰り返しで、一時期は日がな一日水泳のことばっか考えてて、水泳に没頭してたし、泳ぐために生きてる感じだった
- 没頭してたころ、研究のこととか研究してる時しか考えてなかった(いちばん論文書きまくってた時期)
- 通ってるプールの監視員のオッサンに「レッスンなしでこんなに上達した人はじめて見た」って言われて、通ってるプールは40代以上の人しかいないからじゃん?*5っていうのもあるけど、インターネットすごいな〜って思った
議論
- インターネットがあればなんでもできる
- やばくなったらプール行く
- これは稿を改めたいけど、筆者は「普通に生きて普通に研究して普通に論文出す」ことをすごく重要視している
- (大きい事業(?)*6は「頑張る」くらいで実現できるほど甘くないということ)
- プールは、「身体を動かすこと」「習慣にすること」の2側面から、筆者に「普通」をもたらしてくれた
- 身体的にはあんま変わってないのでは?*7
- プール飽きてきたし別のにしたい。ジョギングは筆者がかわいそうなのでやりません
- フリスビーにシフトしたい
- インターネット最高!
追記
2014年の調査に基づく論文が受理されました。お世話になりました各位には後日ご連絡差し上げます。取り急ぎになりますが、ありがとうございました。
— 快適な生活 (@Kaiteki) 2016, 1月 26
- ていうかこんなん書いてたら査読論文の受理がお知らせされて、おまじない感あった。
*1:4本という数字の位置づけは個人の能力や分野により異なりうるが、筆者的には例年の4倍くらい
*2:実際は、たんに毎日おなじ姿勢で作業つづけてるとよくないとか、おなじことだけしてるから飽きてるみたいなやつだと思う
*3:はじめは力が入らないけど何日もやってると力が入るようになる
*4:いわゆるフラットスイム
*5:やや高額な会員制のプールで、アンダー30の会員は筆者しかいない
*6:ここでいう「大きい」とは「筆者にとって・規模が・大きい」という意味であり、価値の大小とは無関係である
*7:さらに顔面が痩せた、肩がガッシリした等の意見が得られたが、プールに起因するとは断定しがたい。体重も変わってない。ただし、タイトめに着てた上着がキツくなった。
2015年に買ってよかったのはお皿たち
冬、ベトナム皿
初春、小皿
初春、鳥のお皿
春、大きなプレート
また真空の鮭やった、本日は七味と塩レモン、七味がやはり圧倒的に美味、塩レモンはレア感出る、鮭なので大根の漬物と合う、右側のセロリのマリネが地味に単体でご飯すすむ
美容師の兄ちゃん(三代目J Soul Brothers似のいい人)に今夜なに食べるんですかって聞かれたのでサンドイッチって答えたら笑われた #沼サン
初夏、四角い小皿
初夏、細長い平皿
夏、かっこいいお皿
晩夏、平たいご飯茶碗
晩夏、葉っぱのカレー皿
冬、プレート
議論
わりと簡単に作れるチョコレート・スフレ情報です
材料
必要なもの
- カレーとか作る鍋
- …小さい片手鍋だとスフレが膨らむ際に蓋に激突して崩壊するので、高さのある鍋がオススメ
- マグカップ
- ボウル
- 泡立てるやつ(自動でも手動でも可)
手順
- マグカップの内側にバターを塗りつけて、さらに砂糖をまぶす
- 板チョコを刻んでバターと一緒にレンジで加熱
- チョコが概ね溶けたらレンジから出して、バターと混ぜ合わせる
- 卵白を別のボウルに入れてメレンゲを作る
- 鍋に2cmくらい水を入れて沸騰寸前くらいにしとく
- そこにマグカップを入れて、タオルで包んだ蓋をして、極弱火で25分蒸し焼きにして完成
今回のスフレはすぐしぼみません pic.twitter.com/plq5oE6r6q
— 快適な生活 (@Kaiteki) 2015, 11月 21
情報コーナー
- スフレは完成から数分間が最もおいしいので、自分で作る価値の高い料理です。
- 銀座の「ぶどうの木」(?)で Soufflé au fromage 頼んだら、さすがにおいしいけど1500円以上して閉口する。しかも昔は同じ値段で白ワインもついてたのになくなってた。
- これは材料費110円くらいです。最高。
- 小麦粉はなくてもおいしくつくれます。小麦粉なしだともっとフワフワですが、すぐにしぼみます。小麦粉が入ると生地が硬くなりしぼみにくくなりますが、多すぎると食感が損なわれると思います。
- ただし逆にもっと大量に小麦粉入れたらスフレ風ケーキとかガトーショコラになって、それはそれでおいしくなると思う。
- コアントローはなくてもいいです。柑橘の風味を加えたいと思って入れたんですが、小さじ2か大さじ1くらい入れてもいいかも。
- その点について、トシヨロイヅカのレシピだと柑橘の果肉そのまま容器の底に置いてたので、その手段を加えると良さそう。
- メレンゲは楽なので自動の泡立てマシン(?)で作ってるんですが、伝統的な手動の泡立て器でやった方が疲れるけど早くできます。マシンの動きは「撹拌」であって空気を含ませる「泡立て」ではないので非効率なのがその理由です。
- 以上の情報は、鍋とマグカップと泡立て器さえあれば、コンビニにある材料でいつでもスフレが作れることを意味しています。
その後
ライフ
- 3時間が限界
- 昼すぎにオフィスきて、メールとインターネット見て、事務作業あれば済ませて、弁当たべて、コーヒーか煎茶いれて、iPhone6plusを仕事用のiPhone5(ストップウオッチ)に持ち替えて、3時間がはじまる
- 18:30頃に3時間が終了して、プールで1時間泳いでスーパーで食材買って帰宅
状況
- 3時間やったあと、休憩して、さらにやる日も週に数回ある
- でも3時間のあと、気合い入れても+2時間の集中が限界で、+1時間集中できればいい方
- ほとんどの場合は、まったく集中してない
- ダラダラした+2.5時間とかになってる
- その場合、文章はほんの少しは進むんだけど、ほんの少ししか進まない
- とくに、書けるか不安な部分は、追加時間中にはまず書けない
- でも翌日は書ける
- 体力切れだから書けないだけなのに、「やっぱ書けへん…ぅち才能(それは何?)なぃんゃ…」っていった形で不安が人間を襲い、視界が硬直化する
批評
- 材料があるなら「書ける」とか「書けない」とかは体力の有無でしかねえんだよ、体力あんなら「書く」か「書かない」かなんだよ、体力ないだけなのに才能とか意味わかんねえもん持ち出して甘えんじゃねえ、てやんでえ
検討
- 3時間以上やるときっていうのは、「もっとやりたい」と思ってるときと、「もっとやらなきゃ…」って思ってるときの2種類があるように感じつつある
- とくに追加時間にダラダラしてしまうのは、後者の気持ちで追加時間に突入したときだと思う
- やはり集中して文章書くのは、自分には3時間が体力的に限界だと思う、そこから先はMP削って書いてる感じ、やりたくてやってるならMP削るの全然OKだけど、気持ちが後ろ向きなら、効果もないしやめた方がよろしいかもしれない
- illustratorや表計算の作業だと、割と追加時間突入しても大丈夫な感じする
展開
- ほんとに文章を書く仕事そのものをやってる日は3時間で切り上げた方がいいかもしんない