「移動」と現代アート

 現代は「移動」の時代です.

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 社会学者のジョン・アーリは,「移動」という視点から現代社会を論じました.彼は,グローバル化,移民社会化,国際観光の増加,移民問題の拡大,国際テロ組織の肥大化といった現代社会の諸事象を,「移動」という側面から鮮やかに統合し説明した,ポストモダン社会学の巨星です.

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 筆者は本展覧会において,アーリの「移動」を鑑賞の補助線として想起させられました.本展は,私たちが,いかに「移動の時代」にいるのかが感じられる機会であったと思います.

モビリティーズ――移動の社会学

モビリティーズ――移動の社会学

 

 

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 アイ・ウェイウェイの「オデッセイ」は,筆者にとって本展の白眉でした.壁面2面にわたる巨大な本作では,難民の「移動」の様子が描かれます.

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作家名/作品名:アイ・ウェイウェイ《オデッセイ》


 また,目玉作品と目されるオノ・ヨーコの「色を加えるペインティング(難民船)」は,観客にクレヨンで「平和へのメッセージ」を書かせる形をとっていますが,写真のようにその核は,「難民船」という「移動」の象徴です.そして「平和へのメッセージ」を書き加える鑑賞者もまた,森タワーのこの場所に来訪し,そして去っていく「移動者」です.

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作家名/作品名:オノ・ヨーコ《色を加えるペインティング(難民船)》

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 本展のキーワードは「カタストロフ」です.本展では多くの作品において,災害や戦争が,カタストロフの具象としてモチーフ化されました.
 災害や戦争は,人々の生活する「地域」において発現します.人々は,自身が生活する地域がカタストロフの舞台になると,難民や移民,避難民といった「移動する存在」になるのです.カタストロフは,人々がいない場所ではなく,いる場所で生じたからカタストロフなのであり,だから,カタストロフには人々の「移動」が付帯するのだと理解できます.

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 本展において,そうした「移動者」をたちをカタストロフから救う,救いうるとされるのは,展覧会名にある「美術のちから」なのでしょう.そしてその「ちから」を行使するのが,アーティストです.ではアーティストとは何でしょうか.
 アーティストのプロフィールを見ると,例えば先のアイ・ウェイウェイは北京生まれ,ベルリン在住,オノ・ヨーコは知られているように東京生まれ,ニューヨーク在住です.こうした出身地と現住地が一致しない例は,アーティストという職業者においては数多く見られるものでしょう.本展では同様の例が少なからず見られます.
 異なる例としては,世界のマネーフロー(カネの「移動」)がもたらしたアイスランド金融危機や,ドバイのフィリピン人メイド(労働力の「移動」)を取り上げたアイザック・ジュリアンは,ロンドン生まれ,ロンドン在住ですが,ロンドンは世界のカネと労働力と観光客の「移動」の中心地であり,彼はこうしたロンドンの「移動性」という地域性のもとにあるアーティストだといえるでしょう.

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作家名/作品名:アイザック・ジュリアン《プレイタイム》(映像の一部)

 またハレド・ホウラニパレスチナ出身・在住)の「パレスチナピカソ」のように,パレスチナという異空間にピカソの作品を「移動」させる,という手段も見られました.ピカソというアーティストが仮想的に「移動」しているのです.日本の様々なアーティストが福島の震災復興に関与するというプロジェクトもありましたが,これも福島への「移動」の例でしょう.

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作家名/作品名:ハルド・オウラン《パレスチナピカソ》(映像の一部)

 

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作家名/作品名:高橋雅子(ARTS for HOPE)《アートで何ができるかではなく、アートで何をするかである》※筆者注:写真の部分が作品に含まれるのかどうかわかりません.

 さらにいえば本展そのものが,鑑賞者に対して,「美術のちから」に覚醒し,その「ちから」をアーティストとして(戦争や災害だけでなく個人の精神的な意味にもおける)カタストロフに行使することを大いに期待しています.例えば先のオノ・ヨーコの,鑑賞者にメッセージを書き加えさせる作品は,「美術のちから」の行使を強制させる装置であると言えるでしょう.
 つまり,アーティストの側も「移動者」なのです.移動者が移動者を移動によって救おうとしている枠組みが,本展のそこかしこで確認することができます.「移動」によって現代社会が成立している,成立せざるを得ない「現実」に,我々はまざまざと直面することができます.

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 しかしながら,ここでもう一つの「現実」に直面します.それは「移動」できない人々もまた存在するということです.ではその人々はカタストロフの後,どうなるのでしょうか.
 難民も移民も,その多くは送出国での比較的上層階級である(「移動できる者」から移動する)ことがよく知られています.つまりカタストロフの現場から「移動」できるのは一部の人々に過ぎません.残された人々は,移動者であるアーティストや芸術作品によってカタストロフから救われる,手を貸される受動的な存在でしかないのでしょうか.
 こうした状況のなかでアーティストは,民俗学者折口信夫がいう「マレビト」のようです.アーティストはマレビト,つまり外部からの異質な来訪者としてカタストロフの舞台にやってきて,一方,その渦中にいる「移動できない人々」はマレビトを歓迎し,マレビトはカタストロフの現実を修正し(救い),去っていく.アーティストはマレビトなのでしょうか.

 

 

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 「移動できない人々」はどうなるのでしょうか.ヘルムット・スタラーツの「アイソレーター」は,「移動できない人々」が経験するカタストロフの閉塞性を描いているようにも見えます.

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作家名/作品名:ヘルムット・スタラーツ《アイソレーター》

 

 こうしたなかで希望を感じられたのが,カテジナ・シェダー(チェコ生まれ,プラハ在住)の「どうでもいいことだ」です.

 

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作家名/作品名:カテジナ・シェダー《どうでもいいことだ》

 キャプションの一部を引用します.

 本作はシェダーが自身の祖母と行ったプロジェクトの記録です.夫に先立たれ仕事を引退し,すべてを「どうでもいい」と放棄してしまった祖母が,商品管理マネージャーとして30年以上も勤めた金物店の品物を鮮明に記憶していることに,作家は気づきました.そこで,商品をひとつずつ名前やサイズとともに紙に描くことを祖母に提案したのです.ドローイングの総数は500枚以上となり,祖母は再び世の中への興味を取り戻し「どうでもいい」という言葉を口にしなくなったと作家はいいます.

 

 チェコ出身の作家のもとで,チェコで暮らす彼女(?)の肉親が,「移動」せずに30年間勤めた金物店の商品を描いていく過程に,再生が見出されています.つまりここでカタストロフへの救いは,「移動できないこと」「移動しないこと」それ自体によって生み出されているのです.
 また「30年間勤めた金物店」という点には,チェコという,グローバルにヒト・モノ・カネが「移動」する現代金融資本主義から取り残された(移動できなかった)旧共産圏地域,として地理的に文脈づけることが可能でしょう.

 本作では,「移動できないこと」「移動しないこと」の特異性,特別性に光が見出される視点が,本作では感じられました.社会がグローバル化しているとされ,グローバルに活躍できるとされる人々(英語話者と同一化される)がもてはやされる意味不明な現代の社会状況において,移動できないことの特別性がもつ光は,本展において最も輝いていたように思えました.

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 言うまでもなく,本展のすべてが「移動」から読み解けるわけではありません.展覧会というテキストの一つの読み方にすぎません.しかしながら本展の鑑賞体験は,「絶え間ない移動の繰り返し」「移動できるもの/できないもの」という現代社会の構造やキーワードを理解する契機になり得るだろうと思われます.

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 以下は余談です.

 

 自分がセンター試験を受けた13年後に,こんどは監督者側になって椅子に座りながら「芸術作品化する社会」という考え方をまとめました.しかしまとまっていません.

  今後別稿で少しずつ言語化していきますが,現代社会では,芸術が社会を変えるのでも,芸術が社会を反映しているのでもなく,社会そのものが芸術作品になりつつあり,我々は社会という芸術作品の作者/実践者/鑑賞者になりつつあるのです.

 今後,よりよい社会づくりのためには「私たちの生きる社会そのものが芸術作品になっている」という考え方が必要です.芸術作品も,芸術という営為も,社会を変えたりはしません.

 だから,私たちが社会を論ずるとき,社会を芸術作品として論ずるべきであり,芸術作品を論ずるときは,芸術作品を社会として論ずるべきなのです.これは芸術称賛論ではなく,芸術批判論です.

 

※本稿掲載の作品画像は,「クリエイティブ・コモンズ表示 - 非営利 - 改変禁止 4.0 国際」ライセンスでライセンスされています。

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