生産性に関するトークです

1) 生産性とはなにか?

 生産性,辞書で生産性ってしらべると「生産過程に投入される生産要素が生産物の産出に貢献する程度」とか書かれててよくわからない感じなんだけど,たぶんなんか,ほんらいは専門的な用語なんだとおもう.よく生産性を向上させるとか,生産性がたかいとか,ひくいとか,こういったことばが日常の業務に関してでてくるんだけど,冷静にかんがえてみると,生産性ってなんなのかよくわからない.さきに書いた専門的な意味とは異なるように感じる.

 日常に即したかたちで生産性というものをかんがえてみると,生産性を概念としてとりあつかうときに,主語をはじめとして,ことばが足りていないような気がしていて,したがって,おれは生産性のことを,ひとまず,自分ないし自分の生産物が価値を生産する能力の程度,というような意味でとらえてつかえばよろしいとおもう.もちろん自分以外はそんな意味でつかってないので,自分だけのひみつのつかいかたになってる.なお,生産性と本質を共有しないが類似している概念として創造性というものもあるんだけど,創造性についても,上記の説明の「生産」を「創造」におきかえれば,創造性をうまく把握できるようにおもう.

 つまりどういうことかといえば,生産性とは,いうまでもなく効率性とは異なるのであって,自分や自分のやったことが,どれだけの価値を生み出すのかということで(生み出す,というと創造っぽくなってよくないんだけど),その生産性は価値ではからないといけないとおもう.投資理論みたいなの,ふつう2ヶ月とかで完成するの,2年かけて通常の1万倍もうかるやつ作ったみたいな話題は,後者の生産性が高いということになって,いい例っぽいとおもう.

 ここで留意すべきは,「価値とはなにか?」というより深い問題があらたに表出してくるということで,よく知られているように,自分にとってなにが価値なのかを正確に把握して,そこにフォーカスすることはきわめてむずかしい.それがむずかしいから,7つの習慣とかが有用だし,パーソナルな問題は価値を正確に把握できないとか,あるいは価値を把握しているのにその価値を追求する行動をとれないことによって発生しているとおもう.したがってフォーカスすべき価値がなんなのか,本質的なゴール地点みたいなのを的確に設定できなければ,生産性とか創造性といったものは成立しなくなってしまうようにおもう.

(むろん,ここでは生産性とか創造性についておれが勝手に定義のようなことをしているからこうなるのであって,一般的にかならずこうなるとはいえない.でも,おおむねこうなるとおもう.).

アタシ夜酒辞めるチェックした

平日の毎晩「アタシ夜酒辞める…!」とか「アタシ夜酒辞める…?」とか発言しつづけている.

これ特定時刻に特定の文字列をツイートするみたいなのIFTTTで設定した単純なやつで,あらかじめTwitterにアップロードしたムギちゃんの画像のURLも入れてあるんだけど,なぜか必ずしもムギちゃんが表示されるわけではないという,おみくじ機能がIFTTT側の好意で追加された.

ムギちゃんじゃない方の画像はTwitterのアイコン画像になってて,謎.

どっちもそれなりにfavをつけてもらってるんだけど,おれとしてはやっぱりムギちゃんが出てきたら当たりという感じで,一日をめでたく終えることができる.そこで玉音放送の日というのもあって,アタシ夜酒辞めるチェックしておいた.

アイコンの画像の人は「くもりん」っていう名前なんだけど,IFTTT設定開始した2014/4/28から2014/8/15まで,平日の毎晩,くもりんとムギちゃんのどっちが出現したか,それぞれどれだけfavをつけられたかを調べた.数値はfav数.favはおおむねめでたさを示す.

結果

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社会をナメているのでGoogle Docsを挿入できると思っていたが人生山あり谷ありで,png画像のせたら雰囲気しかわかんなくなったけど雰囲気わかるので雰囲気感じて欲しい.詳しい分析はダルいしやるわけない.

サマリ
・出現数…くもりん:41,ムギちゃん:40
・fav数…くもりん:28,ムギちゃん:17

含意としては,くもりんとムギちゃんは無秩序に出現しているが,その出現のめでたさはほぼ同格である一方,そのめでたさは同格に評価されておらず,くもりんのめでたさがより多く評価されているというのがある.おれはムギちゃんが出てきた方がうれしいです.

個人情報に関するメモなんで

 個人情報とかプライバシー,問題視されるのが個人情報の「流出」という局面ばかりっぽいところに違和感あるっぽいことに気づいた.個人情報やプライバシーの話題,なんか全体が噛み合ってないというか,話が上滑りしているような,あるいはなんというか現実感がないというか,現実に対して話がデカいような気がするなと思っていたけど,なんでそうなるのかよくわかんなかった.

 個人情報をめぐるプライバシーの問題には,あるいは,というかよく概念整理してないからどう言葉で表現すべきかわかんないんだけど,あるいは,個人情報をめぐって個人のプライバシーが脅かされる局面っていうにのは,個人情報の「流出」だけじゃなくて,「収集」と「使用」っていうのある.むしろ,個人情報やプライバシーの本質は,流出よりも収集と使用の局面にあるんじゃないかという気がしてるっぽい.個人情報やプライバシーっていうのは,言うまでもなく個人がもっているもの,ないしは個人そのものであって,われわれ個人は企業とかお役所とかがどうしてもっていうから仕方なく,一定の範囲内でしかるべき手順でのみ,個人情報やプライバシーの一部を,テンポラリーな形でつかわせてやっている,貸してあげてるだけでしかない.それなのに企業とか役人ごときがそれを逸脱して好き勝手に個人の情報やプライバシーをいじくりまわすのは,個人を尊重していないので,決して絶対にマジで許されない.本来「個人情報が流出した」っていうのは,「企業や役所からどこかへの流出」よりも,「自分から企業や役所への流出」の方が,個人情報や個人としては問題だし,悪なのだと思いつつある.

 これ多分,企業や国家と個人との関係をどうとらえるかの問題とリンクしていて,たとえば企業や国家と個人とではどちらが優先されるかとか,どっちがエライかとか,どっちがどっちを縛っているのか,監視しているのかっていうのに対する認識がかみあわないと,個人情報をめぐるプライバシーの問題も話がかみあわないのではと思う.むろん,企業や国家と個人とでは,個人が優先されるべきだし,個人がエライし,個人が企業や国家を縛ったり監視したりしてるんだけど,個人は必ずしも尊重されなくて,こういうのは容易に建前化されているし,また言うまでもなく,いまの日本語社会は企業や国家と個人との関係は逆になりつつあって,企業や国家が個人を優先しないし,個人はエラくないし,個人を縛ったり監視するのが,当たり前だよねみたいな方向に動いている.なので,そもそも企業や国家が個人から個人情報を流出させているよねっていう,個人情報の「収集」と「使用」の局面における問題が見すごされやすいのかもしれないなどと思った.

 こういうの考えるきっかけになったのはスノーデン問題みたいなやつで,シリコンバレーのIT企業は利用者すなわち個人からガンガン情報すいとりまくってマーケティングにつかってるとか,あるいはそれを通じて国家機構に情報が流れてるとか,国家機構そのものがあらゆる情報を勝手に情報をすいとっていたみたいなパノプティコン問題みたいなのが気になってた.というのは,それがかなり巨悪っぽいのは分かるんだけど,実際のところどういう「実害」があるのだろうかとイメージするのはちょっと難しい.個人情報を勝手に吸い取ることの巨悪性が所与のものっぽくなってるんだけど,その理由がよくわかんなかった.わかんなかったんだけど,企業や国家と個人との関係っていう枠組みを導入したらちょっと分かってきた気がした.企業や国家が個人のいうこと聞かずに勝手に個人情報をつかうのは個人を尊重していない態度そのものであって,個人の尊重を第一の価値とする社会ではそういうの絶対許されないから,巨悪が所与っぽくなるのかと思った.

21世紀の江戸前寿司

大学のちかくに妙に目立たない寿司屋があって、昼にひとりで時々いく、なかは黒い板を貼りつけたり漆喰を塗りつけたりして間接照明で渋いんだけど、カウンターの向こうでは異常に頑固な爺ちゃんがテレビのワイドショー観ながら寿司を握り、人当たりのいい婆ちゃんがそれを運ぶ。食器類が常軌を逸する高品質で、あとで載せる写真では絶対に伝わらない感じで、もはや食器ではなく芸術作品なのがいい。

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ふつうの握りは1500円からだけど、ランチ握りは850円なのでそれを頼んでる。

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ランチ握りだけだと物足りないので、婆ちゃんに光り物と白身でオススメ2貫追加してってお願いしたらこれ出てきた。会計したら1700円だったので、ランチ握りとこの2貫が等価ということになる。追加でくれたのは平目と鯵だった。立派な鯵。魚のなかでは鯵がいちばんうまいと思う。

握りはみんな仕事がしてあって、どれもレベルが高い。コハダがふつうにおいしいのは自分の乏しい経験中ではこのお店くらいで、追加でもらった平目は昆布〆によって濃厚な甘みが出ていた。21世紀において江戸前寿司か否かはネタの産地ではなくて〆等の仕事の質によって決まるけど、江戸前寿司感あって、21世紀の江戸前寿司なんだけど、さすがに会計時に平目と鯵だけで850円と知るのは迫力あったので高額な寿司の不足が問題視されている。

考え方について2点あるので

▪︎いま起きてることについて

・1930〜40年代の流行に合わせたらどう表現されるか、その反対はどうか、両者は同じではないか

・1930〜40年代の指導者の言動といまの指導者の言動の構造は同じではないか

・なにか大きな事件が数年後に起きると想定して、その事件のことを50年後にwikipediaとかで解説される時、いま起きていることはどのように記述されるか


▪︎意見について

・意見には「人間同士は本来同質的」という考えを前提としたものと、「人間同士は本来異質」という考えを前提としたものとに大別できる、その意見や意見を述べる人間は、そのとき、どちらの考えを前提としているか

・人間同士の同質性を前提とする人間は、多様性のない社会で生きている人間(田舎者や幼稚な人間)であり、それゆえに「自分だけは違う人間だ」と考えるので、「個性」のアピールをしたり、考えの見通しが甘かったり(自分は特別だから甘い考えでも問題ないという考え)、他人の考えを理解できると考えたり、表面的な社会的属性、たとえば年齢、性別、出身地、所属先、肩書き、年収、容姿、恋愛対象の性別などで人間や物事の価値を判断しようとしたりする、そこに「個人」という価値観は成立しない

・人間同士の異質性と同質性、どちらも持ち合わせてる、そのバランスや自覚が必要

同質性を前提とする価値観の強い人間が日本語社会では大多数であり、野蛮な危険人物

Kyoto.なんか(仮) でスピリチュアルっぽい話します

Kyoto.なんか(仮) で、いわゆるスピリチュアルな話をなんかします。


話題的には前回の記事に書いたようなののエッセンスみたいな感じを想定してて、全然プログラミングって感じでは直接的にはないかもしれないですが、時間をいただけて嬉しいです。

これ全部話すには自分のショボい力では50年くらいかかってしまうので、ちょびっとだけになるような感じです。よろしくお願い申し上げます。

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http://kyotojs.doorkeeper.jp/events/10869

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 インターネットには構造的な文化的脆弱性があるように思う.その問題を日本国内における問題として考えるときには,感情の重視と,個人概念の成立っていう論点があるっぽく思ってる.
 

 インターネットは「情報通信ネットワークのネットワーク」で,インターネットの情報通信ネットワークとしての特徴はボトムアップ的にいい加減に構築されている多極分散性にある.だけど,インターネットとしてネットワーク化されている個々の情報通信ネットワークは,実はトップダウン的に,いろいろな意味で非常に厳密に構築されている.たくさんあるトップダウン型の厳密ネットワークどうしをネットワーク化するには,ボトムアップ的にやるしかないし,そのとりきめはいい加減にするしかなかった.だからインターネットは,インターネット全体としては,なんかよくわかんないけど通信できてるけどほんとは通信できないのがあたりまえだし通信できてうれしいねみたいな優しい文化のネットワーク.でも,インターネットを構成する個々のネットワークは,かなりミスを許さない感じの厳しい文化で絶対通信できますよね???みたいなネットワークだったりする.インターネットはこういう文化的な矛盾を構造的に抱えた存在.


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 それが問題になってくるのは,2000年代後半以降のモバイルインターネットの爆発的な拡大にある.モバイルインターネットは90年代以降のインターネットの歴史の中でおそらく最重要の事件だと思う.モバイルインターネットの拡大は,一次的にはいつでもどこでもインターネットできるようになることを意味するんだけど,二次的な意味での,情報通信の量と頻度そのものの爆発的な拡大があまりにも重大.

 

 なぜならばインターネットはそういう使い方を想定した設計になってない,いい加減なネットワークだから.モバイルの件は本当に予測不可能だったぽくて,まず日本政府が2000年代半ばまでに頑張ってつくっておしすすめた,中山間地域とかでのインターネットインフラの拡大政策は,もはやモバイルによるブロードバンドのインターネット利用の爆発的な普及によって,全く過去のものにされてしまって,マジで役に立たなくなりつつある.もっと重大なのはインターネットの根幹に関するいろいろな取り決めや制度が,モバイルインターネットの爆発的拡大によって「ほころび」つつあることで,最近のDNSやHeartbleedの問題は,直接これに関わるわけではないけど,同じ文脈にある.インターネットのインフラとしての堅牢性みたいなのは,マジでいつ崩壊してもおかしくないと言われている(もう崩壊してるのかもしれない).


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  そういう構造的な脆弱性が社会的に露呈していく過程を日本社会が受容できるんだろうかという問いがある.早い話が「インターネットなんてそんなもの」というか「インターネットを使えば情報が漏れたりうまく伝達できなかったりするのは仕方のないこと」っていうことを,「失敗を許せない社会」が受容できるんだろうかっていう話になると思う.その受容のためには,インターネットが直面しつつある現実をメディアの現代日本語が説明できるかっていうのが重要だと思うけど,Heratbleed問題のやつを「暗号化ソフトSSLに欠陥,悪用狙い攻撃相次ぐ」とか新聞の見出しに書かれてて,この見出しは何ら間違ったこと書いてないんだけど,何ら現実を表してもいない.

 

 

 

 

 現代日本語は現実ないしは現実の表現能力を喪失しつつあって,特に現実の中でも,「個人の感情」を表すことができなくなりつつある.それは戦後の現代日本文学が事実上壊滅しているからだと思ってるけど,いずれにせよ,いま個人そのものを主語にして日本語で感情を表すことはできるだろうか.個人が主語になっているようにみえて,じつは集団とか,集団としての個人とか,集団の中の個人とか,あるいは「集団ではなく個人」とかが主語にならざるを得なくなってて,つねに集団の影がある.そこを意識する事自体が日本語による論理的思考では極めて困難.個人の感情や,集団の影が落ちない個人そのものの尊重が十分になされなければ,日本語はこのまま集団の情念に支配され壊滅するし,インターネットには最悪の雰囲気が充満し,インターネットが管理社会的監視の場になるし(なってるし),個人の存在と尊重を前提とするグローバルな知識経済化と環太平洋の国際政治のなかでロクでもない感じになると思う.

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 インターネットはエモさをゲット・バックするのが渋いし,インターネットは,個人として生きる資質を伸ばす可能性を拡大するっていう研究成果が出ていて,国際会議で発表されています(おれの研究).インターネットはそういうふうに認識する感じで