自由と監視の両義性と○○性について

 ※新作の原稿がマジ遅々として進まなくて,じゃあ本来どんなこと書くつもりだったのかを,ブログに書くつもりでバーって書けば補助輪になって原稿やりやすくなるよなってなって,細かいことは無視して,さわりの部分だけバーって書いてみることにした.

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 監視社会化がすすんでいると言われている.

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 Webサイトを開けば無数のスクリプトが我々のPCのデータにアクセスを試み,収集したデータは我々の行動履歴を監視し,消費者プロファイリングに役立てる.シヴァ・ヴァイディアナサンは,我々はもはやGoogleを使わずには生活できない状況下にあり,Googleに個人情報を明け渡さずには生きていけないことを確認した上で,でもGoogleのサービスは個人情報の提供の対価として得られる「取引」であるというようなありがちな見解に対して,個人情報やプライバシーは,商品のように切り離して取引できるようなものではないと一蹴している.その通りであろう.ダニエル・ソロヴのように,プライバシー概念そのものを再考しようとする者もいる.忘れられる権利なんてのもあったね.

 スノーデンのように,巨大ネット企業による個人情報利用の背後には国家の思惑が存在するという見解も根強い.根強いどころではないかもしれない.昨年は米中貿易戦争を文脈の一つとしてファーウェイの幹部が逮捕されたが,これは同社が米国民の個人情報を収集し中国政府当局に提供しているという嫌疑によるものであった.中国では,従前のコネ社会や裏金社会からの反動のなかで,アリババによる,個人の信用情報を可視化するサービスや,国家による国民の点数評価が広く受け入れられ始めている.バルト三国も国をあげたICT大国地域として知られるが,それは監視社会化と表裏一体である(バルト三国でそれが受け入れられているのは,ソ連からの独立からまもないベンチャー国家であり,それゆえ国家機構への国民の信用が高いことによるとされる).監視社会化は国際問題という側面も持ちはじめている.

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 SNSに書き込んだ内容(あるいは,書き込まなかった内容)はすべて他者に監視され,likeやRTの数によって評価される.SNSアカウントを持っていなくても,われわれの日常行動はスマートフォンを持った他者によって監視されている.我々のどの行動が,いつ,だれによって,どのように監視され,どのようにSNSに書き込まれるのか,自分では予想できない.バイト先でモラルに欠けた行動をした時だけでなく,ごく常識的な行動をしていたとしても,それを「モラルに欠けた行動」としてSNSに書き込まれる可能性を我々は否定できない.そのSNSの書き込みもまた,それが事実なのか作り話なのか,フェイク動画なのか,あるいは「likeをするに足るpostなのか(そのpostをlikeをしたと他人に知られても構わないのか)」ということが監視されて,つねに評価の目にさらされている.

 例えば渋谷に出かけようとする.そのとき我々はネットで「渋谷 カフェ おすすめ」を検索する.画面に映る全てのカフェは,「口コミ」や☆の数,どこかのライターの「レビュー」によって監視されている.しかし,その口コミやレビューもまた,それが信用に足るものなのか,閲覧者から監視されている.Amazonで物を買うのも同様である.さらには,こうした監視が,イーライ・パリサーのいう「フィルターバブル」つまり自分が見たいものしか見られない情報環境と表裏一体であるという指摘もある.

 「SNS映え」「インスタ映え」という概念は,それが称揚されようが無価値と見られようが,いかに我々の生きる社会が相互監視社会であるかを象徴している.

 鈴木謙介は,こうした状態におかれた我々の社会的心理を「見て欲しいように見てもらっているかどうか不安」と端的に表現した.「見てもらっているか不安」「見られてしまっていないか不安」という問題は過去のものであり,「見られている」ことはすでに前提である.ここでは「見られ方」のコントロール性(あるいは,その不可能性)が問題なのである.

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 つまりネット社会における監視社会化は,二重の監視社会化として整理できる. ①巨大ネット企業(あるいはその背後にある国家)による,プロファイリングを目的とした市民=消費者の監視の拡大(管理社会化)と,②ICTを手にした市民が,①のネットサービスを用いることによる,市民の市民に対する監視の拡大(社会的相互監視)である.

 たぶん①は,グローバル化や,それによる1648年以来のウェストファリア体制と国民国家の瓦解(国家が国民のものではなくなるという恐怖/期待)と,それへの抵抗であり,②はボードリヤールのいう大衆消費社会やハイパー・リアリズムの文脈にあると位置づけられるだろう.でもたぶん明確には分けられなくて,重複がある.

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 いずれにせよ,こうした監視社会化を悪として,個人情報を明け渡すな,自由な個人でいるべきだ,というような抵抗運動は,一般言説においてかなり多く見られる.ローレンス・レッシグアーキテクチャ論は,それを必然とするような考え方と言えるのかもしれない.GAFAM(google, apple, facebook, amazon, microsoft)を一切使わずに生活するという無謀な企画をネットメディアで見たが,そんなことが可能なのはリチャード・ストールマンくらいだろう.あとたぶん企画者はAWSとかAzureとか知らない.AkamaiCISCOはどうなるんだろう.ちなみにストールマンは携帯電話のことを Portable surveillance and tracking device って読んでて,お前ら電源を切れって要求してくるなど,さすが気合の入り方が違う.

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 なお,おそらく,こうした監視社会批判の一つのルーツは,池田純一が指摘したように,インターネットの技術を発展させてきた技術者たちの文化的ルーツが,本人たちが気づいているか否かは別として,ヒッピー文化にあるからであろう.インターネット前夜のハッカーカルチャー全盛期において,コンピューターはヒッピー文化におけるドラッグのように,自分の身体を既存の社会秩序から切り離すと同時に,身体を拡張させるものとして位置づけられてきた(余談ながら,こうした池田の観点を知ったのは大学生の頃だったけれど,今思えば,我々の社会の外部に「出現」したかのように扱われがちなインターネットを,ヒッピー文化という,既存のアメリカ社会の変化の延長線上に位置づける視点は,極めて斬新かつ説得力があると思う).

 つまりインターネット社会は,何者にも縛られてはならない文化のもとで成立している.だから監視が手厳しく批判される.アイザイア・バーリンによる「自由」概念の区別,「積極的自由」と「消極的自由」は大変有名だけど,これを敷衍するなら,ネット社会は消極的自由が最重要視される価値観のもとで技術的に作られてきたが,その技術は結果的に消極的自由を脅かしている,と言えるのかもしれない.

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 (身体を拡張するはずのインターネットが,「身体の消失」という電子的監視を生み出したことは皮肉であろう.監視とは,近代化にともなう「身体の消失」をメカニズムやテクノロジーによって埋め合わそうとする社会的実践であるが,「身体の消失」を埋め合わす行為は再帰的に身体を消失させる.電子的監視のもとで監視されるのは我々の身体の一部(顔や網膜や指紋やDNA)や,身体行為の一部(キーボードで入力した記号や音声や動作)であり,監視は身体の断片を監視する.本来の自明な「わたし自身」たる身体の総体は,実は監視の対象として必要とされていないし,監視することができない.ではしかし,「わたし自身」たる身体の総体を監視できる主体は,この世に存在するのだろうか?じつは監視社会論の出口は,その主体を「神」にもとめるところにあるとも考えられている.今日の監視社会論は,あまり知られていないが,宗教社会学者が骨子を作ったのである(デヴィッド・ライアン).Googleを神として扱う論考も,一般メディアでたまに見るけど,それは神をメタファーとして扱っているのであって,そうではなくて,純粋な神そのものを監視の外部に置く考え方がありうる,らしい,なんとなくわかる気もするが…)

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 さて,しかしながら,世間一般で見られる,いや学術界においてもしばしば見られる監視社会批判論は,説得力に欠けざるを得ないというのが趨勢である.筆者もその立場である.その理由は,第一には,ストールマンでもない限り,ほとんどの人にとって監視を避けて生きることはすでに不可能だからである.したがって,監視社会批判論は,理念的には正しいとしても,あるいは思考実験としては役立つとしても,現実的にはあまり機能しないと言われざるを得ない(監視社会が法学者と社会学者を中心に論じられてきたことによる必然的死角なのかもしれない).

 第二には,便利だからである.Google検索やSNSをはじめ,監視の対価として得られるサービスは便利なのである.単に必要であること以上に,我々の生活を便利で豊かにしてくれている.その功利の前で,単純な監視社会批判は空転せざるを得ない.食べログを見ずに飲食店に行くのはもはや好事家の蛮勇である.食べログのクチコミや評価は操作されているかもしれないが,我々はそれが操作されていることを自明視して役立てている.

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 例えばSNSのユーザーは確かに監視されているが,監視され他者に評価をされ,likeやRTがなされたりなされなかったりすることは,自身の行為の妥当性を測るための,ものさしとして機能する.ジグムント・バウマンは今日の社会状況を「リキッド・モダニティ」と形容する.つまり既存の秩序が溶解し,社会生活における戦略や選択の妥当性を決定する「正解の枠組み」がだんだん消えていき,かつ新たな枠組みというオルタナティブも見えてこない混迷した今日において,監視され,他者評価のまなざしにさらされることは,我々が「自由」に「自立」して「自分の価値観」で生きようとするうえで,有用なツールとなるのである.

 今の時代は,もはや「おしゃれなごはん」を食べようとしたときに「イタ飯」に行けばいいという最適解が存在する時代ではないのである.どこに行ってもいいのである.松屋でもいい.個人が自由に決めていい.就職先もそうである.大企業に行けば幸せな時代ではないからリクナビで自由に会社を選ぶ.しかし哲学や社会学で何度も指摘されてきたように,「自律的に自由に意思決定できる個人」なる存在はフィクションに過ぎないのである.我々が「自由」に選択するためには,補助線となる枠組みがあったほうが楽なのである(エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』的な).そしてソーシャルメディアを介した他者評価は,うまくつかえば,補助線として極めて有効に機能する.

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 そもそも,なぜ監視社会批判論は空転してしまうのか?

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 監視社会論の第一人者であるデヴィッド・ライアンは次のように指摘している.

 監視論においてしばしば引用されるのが,ミシェル・フーコーパノプティコンである.フーコーパノプティコンを,近代を成立させた権力装置の理解のメタファーとして用いた.しかし,フーコーパノプティコンは今日の監視社会を理解するメタファーとしてもはや十分に機能していない.にも関わらず,監視を論じる者たちがフーコーのフォロワーでしかないことが,監視社会批判の空転の理論的原因である.

 どういうことか.論点は2つである.第一に,フーコーパノプティコンには元ネタがあって,ジェレミーベンサムパノプティコンであることが知られている.パノプティコンでは,監視棟に立つ監視者は囚人を見ることができるが,囚人は監視者を見ることができない.だから監視者はたとえ監視していなくても,囚人は被監視者として振る舞わざるを得ない.このように監視を身体化させる権力の作用が近代の有り様であるとフーコーは説明した.ここでパノプティコンは,監視する/される場として扱われる.しかしながらベンサムパノプティコンは同様の建築構造を持つものの,監視という行為には,「配慮」という次元があるとされた.すなわち監視されているということは,見守られているということでもある.囚人が脱走という悪事を働かないように監視しているということは,同時に,脱走という悪事を働いて「しまわない」ように,「囚人のために見守っている」ということも意味するとベンサムは考えていた.

 登下校中の小学生にGPSトラッカーをもたせるようなものである.GPS端末を持たされた小学生は,親から監視されているわけであるが,それは同時に,見守りという「配慮」でもあるのである.

 ライアンは,「監視」と「配慮」は本来,表裏一体であると説いている.そしてフーコーパノプティコンでは,近代化や権力作用を説明するために,配慮の次元が捨象され,監視の次元のみが結果的に強調されてしまったとする.それゆえフーコーの枠組みを用いる限り,監視は「個人の自由を束縛する悪」としてしか理解できないのである.無理のある監視社会批判論は,フーコーの枠組みで今日のネット社会の電子的監視を理解しようとしてしまっているがゆえのものである.

 ライアンのこの考え方は発表当時あまり理解されなかったようだが,いち早くこの本質を見抜いたのは,失礼ながら意外なことに,東浩紀だったそうである.東は,2000年代前半の当時からみて,将来のネット社会は本質的に相互監視社会でしかありえないのかもしれないと述べていて,正鵠である.

 第二に,ライアンとともにジグムント・バウマンも述べるように,フーコーパノプティコンの前提についてである.フーコーパノプティコンでは,監視する者とされる者との関係が明確であることを全体としていた.つまり監視棟に立つ監視者は権力者であり,監視される囚人は囚人でしかありえない.囚人が監視者を逆に監視するということはなかった.そして監視者は,強い力を持つ少数の主体が,つねに囚人のそばにいる,そういう存在であった.ジョージ・オーウェル1984のビッグ・ブラザーもそういう存在だった.でも,今日の監視社会では,この前提は明らかに成立していない.

 ソーシャルメディアの例でわかるように,ユーザーがユーザーを監視しているのが今日の監視社会であって,いわば囚人が囚人を監視している.また政治家や著名人の「炎上」が示しているように,囚人が権力者も監視している.

 ソーシャルメディアだけでなはく,巨大ネット企業によるユーザーの監視も同様である.巨大ネット企業による監視は,確かに権力者が囚人を監視していると言えるが,我々は日々,複数の巨大ネット企業のサービスを利用している.「強い力を持つ少数の主体による監視」という前提は成立しない.また我々はGoogleに監視されているとしても,ではネット上で監視しているその「Google」とは,どこにいるのだろうか?シリコンバレーにいる人々が直接我々を監視しているわけでもない.日本支社でもない.というか,どこの人間が実際に監視しているのか我々には分からないし,たぶんGoogleの人にもそれは分からない.もっといえば,たぶん監視しているのは人間ではなくアルゴリズムであり,監視はしているのだが,実際に監視している主体は存在しない(これをもって,「監視していなくても監視が機能する」というフーコーパノプティコン論が適用できると考える向きもあるようだが,アルゴリズムによる監視では,実際に監視は行われているのであって,その意味でもやはり異なっている).

 筆者は「BIG DATA IS WATCHING YOU」と書かれたTシャツを持っているが,監視者としてのビッグデータは,フーコーパノプティコン的存在であるビッグブラザーとは本質的に異なるのである.なので「そうじゃないんだよな〜」って思いながら着てる.

 

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 さらに,ライアンの監視社会論のユニークな点は,社会それ自体が監視によって成立しているという考え方である.

 我々が人間同士の社会的に関わり合って社会を成立しているわけだけど,社会を成立させるためには,人間同士の信頼が必要であり,信頼を醸成するためには監視が必要であり,相手が信頼に値する存在なのか,どの程度信頼できるのか,信頼を裏切るような行為をしていないのか,監視することになるというのである.そして,テクノロジーが存在しない前近代社会では,こうした監視は身体によって,つまりFace to Faceのコミュニケーションによって行われていたが,近代化とテクノロジーの発達によって,社会は身体を介在しなくなった.つまり電信,電話,テレビ,ネットというように,遠隔でのコミュニケーションによって社会が成立するようになった.すると身体を介した監視が行えないため,信頼が成立せず,社会が機能しない.それを埋め合わせるために,テクノロジーによる電子的監視が広がったのであると,ライアンは整理している.非常に整合性の取れた監視の位置づけだと評価したい.

 ここでは,日本の代表的なライアン研究者である野尻洋平がいうように,「監視をコミュニケーションの地平において捉えている」のである,地平ってよくわかんない言い回しだけど,つまり監視というのは一種のコミュニケーションなのであって,コミュニケーションというのは人間が本来的にずっと行ってきた社会成立の基本要素なんだよっていうことである.

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 つまり監視されることによって得られる自由があり,自由を得る対価として監視が存在する.

 ネット社会化によって我々の選択の自由は格段に広がったが,その自由を行使するためには,必然的に二重の監視を是認せざるを得ない.逆に言えば,監視されることによって,選択の自由は格段に広がる.ライアンは監視は配慮と表裏一体であると説くけれども,筆者は,自由と監視が表裏一体なのだと思う.監視を理解することは,我々がどれほど自由であるのかを理解することを意味する.

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(個人が個人として自由に伸び伸びと生きられる社会にすべき,もっと個人の自由を尊重すべき,というような意見が,ここ数年,ネット上で目立つようになってきたと思う.筆者もそう考えていた.けれども,では個人の自由って何?個人が自由であるってどういう状態? そういう問いはあまり見られないように思う.現在の筆者は,個人の自由なるものがこの世に存在するとは信じきれない.自分の頭で考えて行動する,自律的で自由な意思決定を行う個人というのは,歴史的時空としての近代の成立要件であるが,大げさに言えばナチスや翼賛体制のように,我々は自由な意思決定によって不自由を獲得した(大政翼賛会治安維持法政党政治が抜群に機能する中で成立した).大屋雄祐が言うように,自律的で自由な意思決定を行う個人なるものは,フィクションに過ぎないのであって,しかしそのフィクションは現状では信じるに足るフィクションであると評価されているから,個人が尊重される社会がとりあえず存在しているのにすぎない.個人の自由を理解するためには,フィクションとしての個人の自由が「どの程度フィクションなのか」を理解すべきだと思う.つまり監視を同定した上で,人間の選択行為から監視を引き算することで自由が理解される.自由とは監視との差分でしか存在し得ないと思う.過度で純朴な個人の自由信仰には危険な雰囲気を感じる.監視を引き受けない自由は,自由ではなくデカダンスというべきであろう.)

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 だから考えないといけないのは,表裏一体である監視と自由のバランスである.

 確かに強硬な監視社会批判には説得力がない.しかし,監視と配慮(自由)が表裏一体であると言っても,ではそうであるから巨大ネット企業のユーザー監視や,ユーザー間の相互監視を無批判に我々は受け入れるべきである,という考え方にも組みするべきではない.我々が考えないといけないのは,監視がフーコーの言うような固定的なものではなくなって,監視が流動化し不可視化しているとしたうえで,ではその結果として結局だれがどう監視しているのか,その監視構造そのものを,社会の諸位相において,監視に関わる人々がどのように評価しているのか,という具体論であろう.

 ライアンにもバウマンにも欠けているのは,監視の○○性という,社会学にも法学にも本質的に欠けていて,かつ人間の存在においてもっと基本的な視点である.監視の○○性を論じることによって,流動化する監視を理解し,結果として,様々な○○の中で生きる我々がいかに自由であるのか,ないのか,その蓋然性を把握することになるだろう.○○に何が入るのかは秘密です.日々こんなこと考えて書いてるだけでお給料もらえるなんてつくづくすごい状態だな……

「移動」と現代アート

 現代は「移動」の時代です.

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 社会学者のジョン・アーリは,「移動」という視点から現代社会を論じました.彼は,グローバル化,移民社会化,国際観光の増加,移民問題の拡大,国際テロ組織の肥大化といった現代社会の諸事象を,「移動」という側面から鮮やかに統合し説明した,ポストモダン社会学の巨星です.

www.mori.art.museum
 筆者は本展覧会において,アーリの「移動」を鑑賞の補助線として想起させられました.本展は,私たちが,いかに「移動の時代」にいるのかが感じられる機会であったと思います.

モビリティーズ――移動の社会学

モビリティーズ――移動の社会学

 

 

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 アイ・ウェイウェイの「オデッセイ」は,筆者にとって本展の白眉でした.壁面2面にわたる巨大な本作では,難民の「移動」の様子が描かれます.

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作家名/作品名:アイ・ウェイウェイ《オデッセイ》


 また,目玉作品と目されるオノ・ヨーコの「色を加えるペインティング(難民船)」は,観客にクレヨンで「平和へのメッセージ」を書かせる形をとっていますが,写真のようにその核は,「難民船」という「移動」の象徴です.そして「平和へのメッセージ」を書き加える鑑賞者もまた,森タワーのこの場所に来訪し,そして去っていく「移動者」です.

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作家名/作品名:オノ・ヨーコ《色を加えるペインティング(難民船)》

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 本展のキーワードは「カタストロフ」です.本展では多くの作品において,災害や戦争が,カタストロフの具象としてモチーフ化されました.
 災害や戦争は,人々の生活する「地域」において発現します.人々は,自身が生活する地域がカタストロフの舞台になると,難民や移民,避難民といった「移動する存在」になるのです.カタストロフは,人々がいない場所ではなく,いる場所で生じたからカタストロフなのであり,だから,カタストロフには人々の「移動」が付帯するのだと理解できます.

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 本展において,そうした「移動者」をたちをカタストロフから救う,救いうるとされるのは,展覧会名にある「美術のちから」なのでしょう.そしてその「ちから」を行使するのが,アーティストです.ではアーティストとは何でしょうか.
 アーティストのプロフィールを見ると,例えば先のアイ・ウェイウェイは北京生まれ,ベルリン在住,オノ・ヨーコは知られているように東京生まれ,ニューヨーク在住です.こうした出身地と現住地が一致しない例は,アーティストという職業者においては数多く見られるものでしょう.本展では同様の例が少なからず見られます.
 異なる例としては,世界のマネーフロー(カネの「移動」)がもたらしたアイスランド金融危機や,ドバイのフィリピン人メイド(労働力の「移動」)を取り上げたアイザック・ジュリアンは,ロンドン生まれ,ロンドン在住ですが,ロンドンは世界のカネと労働力と観光客の「移動」の中心地であり,彼はこうしたロンドンの「移動性」という地域性のもとにあるアーティストだといえるでしょう.

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作家名/作品名:アイザック・ジュリアン《プレイタイム》(映像の一部)

 またハレド・ホウラニパレスチナ出身・在住)の「パレスチナピカソ」のように,パレスチナという異空間にピカソの作品を「移動」させる,という手段も見られました.ピカソというアーティストが仮想的に「移動」しているのです.日本の様々なアーティストが福島の震災復興に関与するというプロジェクトもありましたが,これも福島への「移動」の例でしょう.

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作家名/作品名:ハルド・オウラン《パレスチナピカソ》(映像の一部)

 

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作家名/作品名:高橋雅子(ARTS for HOPE)《アートで何ができるかではなく、アートで何をするかである》※筆者注:写真の部分が作品に含まれるのかどうかわかりません.

 さらにいえば本展そのものが,鑑賞者に対して,「美術のちから」に覚醒し,その「ちから」をアーティストとして(戦争や災害だけでなく個人の精神的な意味にもおける)カタストロフに行使することを大いに期待しています.例えば先のオノ・ヨーコの,鑑賞者にメッセージを書き加えさせる作品は,「美術のちから」の行使を強制させる装置であると言えるでしょう.
 つまり,アーティストの側も「移動者」なのです.移動者が移動者を移動によって救おうとしている枠組みが,本展のそこかしこで確認することができます.「移動」によって現代社会が成立している,成立せざるを得ない「現実」に,我々はまざまざと直面することができます.

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 しかしながら,ここでもう一つの「現実」に直面します.それは「移動」できない人々もまた存在するということです.ではその人々はカタストロフの後,どうなるのでしょうか.
 難民も移民も,その多くは送出国での比較的上層階級である(「移動できる者」から移動する)ことがよく知られています.つまりカタストロフの現場から「移動」できるのは一部の人々に過ぎません.残された人々は,移動者であるアーティストや芸術作品によってカタストロフから救われる,手を貸される受動的な存在でしかないのでしょうか.
 こうした状況のなかでアーティストは,民俗学者折口信夫がいう「マレビト」のようです.アーティストはマレビト,つまり外部からの異質な来訪者としてカタストロフの舞台にやってきて,一方,その渦中にいる「移動できない人々」はマレビトを歓迎し,マレビトはカタストロフの現実を修正し(救い),去っていく.アーティストはマレビトなのでしょうか.

 

 

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 「移動できない人々」はどうなるのでしょうか.ヘルムット・スタラーツの「アイソレーター」は,「移動できない人々」が経験するカタストロフの閉塞性を描いているようにも見えます.

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作家名/作品名:ヘルムット・スタラーツ《アイソレーター》

 

 こうしたなかで希望を感じられたのが,カテジナ・シェダー(チェコ生まれ,プラハ在住)の「どうでもいいことだ」です.

 

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作家名/作品名:カテジナ・シェダー《どうでもいいことだ》

 キャプションの一部を引用します.

 本作はシェダーが自身の祖母と行ったプロジェクトの記録です.夫に先立たれ仕事を引退し,すべてを「どうでもいい」と放棄してしまった祖母が,商品管理マネージャーとして30年以上も勤めた金物店の品物を鮮明に記憶していることに,作家は気づきました.そこで,商品をひとつずつ名前やサイズとともに紙に描くことを祖母に提案したのです.ドローイングの総数は500枚以上となり,祖母は再び世の中への興味を取り戻し「どうでもいい」という言葉を口にしなくなったと作家はいいます.

 

 チェコ出身の作家のもとで,チェコで暮らす彼女(?)の肉親が,「移動」せずに30年間勤めた金物店の商品を描いていく過程に,再生が見出されています.つまりここでカタストロフへの救いは,「移動できないこと」「移動しないこと」それ自体によって生み出されているのです.
 また「30年間勤めた金物店」という点には,チェコという,グローバルにヒト・モノ・カネが「移動」する現代金融資本主義から取り残された(移動できなかった)旧共産圏地域,として地理的に文脈づけることが可能でしょう.

 本作では,「移動できないこと」「移動しないこと」の特異性,特別性に光が見出される視点が,本作では感じられました.社会がグローバル化しているとされ,グローバルに活躍できるとされる人々(英語話者と同一化される)がもてはやされる意味不明な現代の社会状況において,移動できないことの特別性がもつ光は,本展において最も輝いていたように思えました.

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 言うまでもなく,本展のすべてが「移動」から読み解けるわけではありません.展覧会というテキストの一つの読み方にすぎません.しかしながら本展の鑑賞体験は,「絶え間ない移動の繰り返し」「移動できるもの/できないもの」という現代社会の構造やキーワードを理解する契機になり得るだろうと思われます.

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 以下は余談です.

 

 自分がセンター試験を受けた13年後に,こんどは監督者側になって椅子に座りながら「芸術作品化する社会」という考え方をまとめました.しかしまとまっていません.

  今後別稿で少しずつ言語化していきますが,現代社会では,芸術が社会を変えるのでも,芸術が社会を反映しているのでもなく,社会そのものが芸術作品になりつつあり,我々は社会という芸術作品の作者/実践者/鑑賞者になりつつあるのです.

 今後,よりよい社会づくりのためには「私たちの生きる社会そのものが芸術作品になっている」という考え方が必要です.芸術作品も,芸術という営為も,社会を変えたりはしません.

 だから,私たちが社会を論ずるとき,社会を芸術作品として論ずるべきであり,芸術作品を論ずるときは,芸術作品を社会として論ずるべきなのです.これは芸術称賛論ではなく,芸術批判論です.

 

※本稿掲載の作品画像は,「クリエイティブ・コモンズ表示 - 非営利 - 改変禁止 4.0 国際」ライセンスでライセンスされています。

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日本は遅れてる

「日本は諸外国に比べて遅れている」と昨今よく耳目にする気がします.日本で生きている実感レベルでも,たしかに日本は「遅れている」とそれなりに思うのですが,ずっと違和感がありました.日本は「EU」とか「アメリカ」とか「カナダ」とか「中国」といった,特定の海外の国や地域から遅れている,という理解は妥当なんだろうかという違和感です.これは空間の水平的な差異に着目する枠組みで,日本は水平的に遅れているという理解です.しかしあまり知られていませんが,空間には垂直的な差異もあります.

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いま世界で起きている大きな動きは,グローバルな空間とローカルな空間との垂直的な乖離です.

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ニクソン・ショックによる変動為替相場制の成立は冷戦崩壊に先んじて金融革命を引き起こし,国家間,地域間の相互依存的で不安定なグローバル金融ネットワークが形成され,金融の情報化とあいまって,カネが世界中を飛び回るマネーフローの世界が作られました.それを前提に冷戦崩壊を背景とした資本主義市場の拡大,多国籍企業の勃興,航空交通ネットワークの廉価化と拡充が進み,こうした動きが「グローバリゼーション」「経済のグローバル化」として理解されています.

しかしグローバリゼーションとか経済のグローバル化というと,世界の様々な国や地域が相互に頻繁・密接に結びつく,というイメージで語られがちですが,今起きているのはそういうことではありません.その相互結合の結果として,仮想的な「グローバル空間」が形成されるというイメージです.すなわち,グローバルなマネーフローや人の動きや企業活動が、グローバル空間をただ飛び回るだけで,それらの諸資源がローカル空間,すなわち現実の社会経済行動が行われる現実空間と結びついていかない,その結果として,地球上のほとんどのローカル空間が置き去りにされて「遅れて」いっているという状況です.スーパーグローバリゼーションとかハイパーグローバリゼーションって呼んでいる人もいます.

情報社会を論じる上で不可避的な存在であるスペインの社会学者マニュエル・カステルは,こうしたグローバル空間を、「フローの空間space of flows」と呼びました.フローの空間にあるのはまさにフローでしかない,カネもヒトも,フローでしかないから.現実のローカル空間に結びついていかないということです.とてもいいネーミングですね.

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つまり日本が諸外国に遅れているのではなく,たぶん中国もふくめどの国も,グローバル空間に対して遅れていると見られます.したがって,仮に「滅びゆく日本」を見捨てて海外に活路を見出そうとしても,現実に我々が生活を営むのは,仮想的なグローバル空間ではなく現実のローカル空間ですから,結局は多かれ少なかれ、「滅びゆくどこか」のなかで生きざるを得ません.ローカル空間の衰退には地域差すなわち時間差があるので,その時々において自分に都合のよいローカル空間を選んで生きる,ということもありえます.しかし現実としてローカル空間や社会制度はそのような生活を前提に設計されていないから,それはそれで生きにくそうに見えます.仮にそうした「フローとしての生活」をしたとしても,フローはフローなので,ローカル空間と再結合して「ふつうの生活」を再構築することもまたむずかしいだろうと思われます.

結局,われわれの目から見て「進展」しているように見える地域や社会は,どこかのローカル空間の中のスポット,点にすぎません.グローバル空間に諸資源を吸い上げられて衰退していくローカル空間のなかに,ごくわずかの点だけが進展しているように見える,しかし,結局その点の資源も「フロー」にすぎないので,いつまでその進展が続くのかは未知数であると言えます.一時的なバブルなのではなくて,構造的にそうだということです.

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今日さまざまな分野で問題とされているのは,このように乖離したグローバル空間はいかにローカル空間と再結合されうるのか?ということです.かならずしもフローの空間としてのグローバル空間がローカル空間を一方的に変質させているだけではなく,ローカル空間からグローバル空間への「異議申し立てprotest」やグローバル空間のローカル空間への「埋め込みembeddedness」もさまざまな領域で認められはします.オランダの経済学の大家 Peter Nijkamp は,Globalization と Localization は一つの現象の両側面だと看破しています.だから Glocalization という表現も見られますね.グローバル空間が強まっているからこそ,グローバル空間がフローの空間になっているからこそ,じつはローカル空間の意義が重要視されています.

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やや話が変わりますが,「24時間働いて会社のために尽くす」という価値観に,われわれの世代から疑問が出てきています.われわれの世代にとってその価値観は「遅れている」のであり,「金もそれなりに大切だけど,会社に尽くしても会社はなくなるし,自分の力で働いて,精神的にも豊かにゆとりのある生活をしたい」みたいな価値観が「進んでいる」のではないかと思われます.しかしいずれの価値観も,おそらく自分や自分の大切な人間を守るための規範として機能していた,しているのだと思われます.「遅れている」価値観は,かつて「進んでいる」のであったし,いずれも目指すところは同じだったのではないでしょうか.たぶん会社に尽くす価値観は,1960年代前後の時点では「農村社会ではなく企業社会に属する方が効率がいい」という意味でスマートだったのではないだろうかと感じられます.両者の価値観に優劣はないと見えます.にも関わらず会社に尽くす価値観が「遅れて」いったのは,その価値観が良くも悪くも戦中の地域共同体的制度を前提に………すみません話がまとまんないんで話飛ばします

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結局,個人としてどう生きうるんでしょうか.重要なのはローカル空間に根ざして生きられるか,ということだと思います.グローバル空間を目指すこと,グローバル人材になること,国や地域に縛れずに生きるといった「現代的」な価値観は,グローバル空間が仮想的なフローの空間でしかないことをふまえると,確信は持てないけれど,虚構なように見えてきます.

逆説的ですが,これは日本で生まれて日本で死ね,海外に出ていくのは無駄,という話ではありません.どこに出ていったっていいし日本にいたって,日本のどこにいたっていいけれども,どこかの場所で,何らかの方法でローカル空間に根ざすことが求められるのではないか,という考え方です.

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「日本ダメだ論」みたいなものが急速に浮上してきたように見えていました.日本は諸外国に遅れている,グローバルスタンダードに対応できていない……,そういう側面もかなりの程度あるとは思いますが,極端な「日本ダメだ論」は「世界から褒められる日本」のような「日本スゴイ論」と表裏一体であるように,なんとなく見えています.つまり「日本というローカル空間に特有の特性を冷静に見極めていない」という,一枚のコインの表裏なのではないか.母国に対して批判的になること自体は重要だけれども,いま散見される批判は「批判(人間の知識や思想行為などについて,その意味内容の成立する基礎を把握することにより,その起源妥当性限界などを明らかにすること…kritik)」なんだろうか?極端な母国悲観論は最終的に実現可能性の薄い極端な解決策を求めようとすることは,歴史も証明しています.

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空間を,水平的にではなく,垂直的に分けてみようという,一つの視点でした.

「自由時間」について

駒澤大学の広告にとてもいいことが書いてあったので、以下全文を転記します。

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自由時間は、
なぜ、必要か

自由時間、というと何を思い浮かべますか。スマホでゲームをしている時間?それとも、友達とカラオケをしている時間でしょうか。古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、幸福は自由時間にこそ存在すると主張しました。この考えを後世の経済学者たちが批判しながら継承し、すべての経済活動や科学の発展は、労働時間を減らし、自由時間を増やすためにある、という真理に行き着いたのです。しかし、現実はどうでしょう。技術の進歩によって短時間でモノがつくれるようになっても、人々の労働時間は減るどころか、むしろ増えてきました。そうやって生み出された価値を人口のごく一部が独占し、多くの人は貧困や荷重労働に苦しんでいます。現代社会では所得だけでなく、自由時間にも大きな格差が生じているのです。

自由時間はギリシア語で「スコレー」といい、これは「スクール」の語源です。社会に目を向け、人と議論を交わし、思索を深めることで成長していく。その場所こそが学校であり、その時間こそが自由時間に他なりません。貴重な貴重な大学四年間、ぜひ、最高の「自由時間」を過ごしてください。

(経済学部 商学科 教授 姉歯暁)

筆者は、大切なのは「自由時間を作る」ことだと思います。大学にしか「自由時間」がないのではない。「自由時間」を日々の生活のなかでいかに作れるか、これこそがわれわれ人間の知性の源泉であると思います。

構造主義で作るおいしいカレー

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知の三段階

今日、人間の知は次の三段階に分けられます。

  1. 事象の収集(何があるか)
  2. 事象の理解(本質は何か)
  3. 事象間の関係化(どう位置づけるか)

人間の知に「関係」の理解という第3段階を追加したのが構造主義です。構造主義とは、事象そのものの本質よりもそれを構成する要素間の関係、つまり構造に着目する考え方です。

カレーと構造主義

ところで、カレーの本質とは何でしょうか。ルウの存在?スパイスの存在?ブイヨンにカレー粉をまぶしたもの?……カレーという概念をあらためて吟味すると、じつに「ふれ幅」の大きな概念だということがわかります。結局のところ、カレーとは、「カレー的なスパイスをつかった料理」くらいにしか説明できません。「インド料理をすべてカレーと呼ぶことは、日本料理をすべてしょうゆ料理と呼ぶようなもの」とよく言われます。「カレー」の概念的実態は、使い手によって異なる、曖昧で変動的なものと言えます。

カレーの概念が変動的だということは、それに連動して、カレーの作り方も変動的だということです。世の中に「おいしいカレーの作り方」が無数にあるのは、カレーの概念がファジーであることに起因します。そのため、おいしいカレーを作るには、「おいしいカレーとは何か?」という、上記第2段階の表面的な問いでは、カレーそのものがファジーな概念ゆえに、有効な答えを出せません。問いの立て方がまちがっています。

おいしいカレー作りに必要なのは、カレーの「飾り」を排除した根幹構造の理解、すなわち「カレーの構造とは何か?」という問いです。「隠し味」や「コツ」や「スパイスから作る方法」を知ること、ではありません。「カレー的なもの」を作るのに最低限必要な要素を抽出し、それらの関係を理解するアプローチです。この構造主義的アプローチをとることにより、いまわれわれは正統的でありつつも既存の概念にとらわれないカレー作りを可能とするのです。

カレーの構造

カレーに最低限必要なのは以下の諸要素です。

  1. とろみ要素
  2. 味付き水溶液
  3. カレー的香辛料
  4. 炭水化物

これらは、例えば次のように具体化されます。

  1. 小麦粉あるいは片栗粉、それらで炒めたネギ類
  2. ブイヨン、牛乳、水、トマトジュース
  3. ターメリック、クミン、コリアンダー、カイエンペッパー、塩
  4. 米、ナーン、チャパーティ

カレーは、以上1,2,3,4の順番で用意し、水分を飛ばして味を濃縮させながら混合すれば、最低限成立します。これがカレーの構造です。

構造主義的につくるカレー

したがって、上記の構造に沿って作れば、やや変則的な作り方をしてもカレーはカレーとして完成します。先日、筆者はここまで書いたことに着想して、やや変わったカレーを作ってみることにしました。材料は2人分です。

1.とろみ要素

  • 長ネギ 1本
  • 小麦粉 大さじ1弱
  • バター 10g
  • オリーブオイル 大さじ1強

刻んだ長ネギをバターとオリーブオイルで炒め、小麦粉を加えてさらに炒めました。小麦粉は結果的にやや多すぎました。小麦粉はこの段階で入れないとダマになります。

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ネギを焦がしてるのが分かります。よくカレーのレシピで「タマネギを焦がすな」「飴色にしろ」とありますが、感覚的には誤差です。構造にも無関係です。*1*2

2.味付き水溶液

  • 牛乳 200mlくらい
  • ブイヨンキューブ 1欠片の半分
  • ウスターソース 小さじ1弱
  • 人参と肉 好きなだけ

牛乳をベースに、ブイヨンキューブとウスターソースも入れました。良いウスターソースには、良いブイヨンの材料が凝縮されているので、隠し味につかうと味を一気に洋風に寄せられます。これらでブイヨン風の味付き水溶液を作ることで、カレー全体を欧風カレー側に寄せます。*3

今回は色要素として人参を入れました。構造主義的に重要なこととして、人参はカレーの構造に関係しません。よってレンジで熱だけ入れて、好きなタイミングで入れます。構造に無関係な具材は、構造に無関係ゆえに、すべて好きなタイミングで入れられます。

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このあとで鳥もも肉も入れました。

カレーと肉の関係も重要な論点です。結論を先取りすれば、肉もカレーの構造に無関係です。肉は煮込むと味が抜け、水溶液に滲出します。肉の味をカレーに強く付与したくても、単に煮込むだけでは水溶液に滲出した肉の味はスパイス等に消され、味の抜けた肉が残るだけでしょう。肉の味を強く押すならば、ブイヨンを牛骨や挽肉から本格的につくること、すなわち味付き水溶液の味を肉側に寄せる方が、構造的に正しいアプローチといえます。

カレーの構造において、肉はトッピングに過ぎません。筆者はいつも別のグリルで焼いた肉を後のせします。今回は見た目の面で混ぜ込みたかったので、グリルで焼いておいたものをこの段階で投入しました。この時点で火を止めるので、一切煮込みません。

3.カレー的香辛料

スパイスはしばしばカレーの根幹的存在として位置づけられ、どのスパイスをどれくらい入れるかが議論されます。しかしながら、構造主義的には味付き水溶液や炭水化物と同列の、一つの要素にすぎません。スパイスのこだわりは味を左右するものの、適当に入れても問題ない存在でもあります。今回は火をとめてから、色づけにターメリック、香りづけにコリアンダー、辛さづけにカイエンペッパーを入れました。*4

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ただし、ここで市販のカレールウやカレーペーストをつかうのは避ける必要があります。なぜかというと、これらはとろみ要素や味付き水溶液と重複する存在なので、このタイミングで使うと、カレーの構造を破壊するからです。ルウやペーストは、カレーの構造に沿っていません。それらをつかいたければ、パッケージの裏に書かれた手順で作るのが最善であり、その手順はカレーの構造とは異なります。*5*6

なお、今回は華やかなオレガノも入れました。インドカレーや欧風カレーにはない、華やかな香りを加えることで「変則的」感を強調できます。カレーの構造とは無関係です。

最後に塩を入れます。塩分濃度で最終的な味を決めます。なにか味が足らないと思ったら、スパイスではなく塩を追います。追いすぎたら水で薄めます。これは構造とは無関係の「コツ」です。

4.炭水化物

硬めに炊いたバターライスにしました。

完成

これです。趣味でパセリと胡椒をかけました。構造には無関係です。

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ふつう、スパイスから欧風カレーやインドカレーを作るときは、上記に玉ねぎやトマトを入れ、肉を煮込み、スパイスにクミンも入れますし、牛乳はこんなにたくさん入れません。しかし、それらのことはカレーの構造には無関係なので、無視しても、おいしくて、かつカレーらしいカレーは完成するということです。食べた人はおいしいと言ってました。筆者も食べましたが、おいしいです。

構造主義的アプローチの意義

重要なのは、上記のレシピが良い、ということではありません。カレーの構造を理解すれば、失敗を避けながらオリジナルかつ正統的なカレーを無限に構想できる、つまりおいしいカレーの幅が広がるということです。

あと最初に書いた構造主義の話はウソです。頭良さそうに見えるかなと思って書きました。つか、たかがカレー作んのにこんなクソ長い上にダルい記事誰が読むんだ???作り方のエッセンスはほぼ id:UDONCHAN さんの記事と同じだし、解説もよっぽど丁寧かつ実践的です。マジそちらを読みましょう。 本稿は時間の無駄。

tsukurioki.hatenablog.com

今後の課題など

つづく問題は当然、「カレーの脱構築 」であるわけですが、これは「脱構築」自体が概念的に定式化されていないため、当面不可能です。

あと本稿は渋谷でうたプリ広告を待ってる間に下書きしました。

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※念のため付記しますが、筆者は読者諸賢の「あたしがしってる本当の構造主義」とか、ほかのなんとか主義とか、ホンマ、ホン〜マ興味ないんで、、、、ホンマ、、、頼む、、、、

 

*1:タマネギを焦がさず飴色にするのは、いわゆるメイラード反応的な「香ばしい甘さ」を出すためと考えられます。これを筆者は焦がしつつの白砂糖投入でスルーできると考え実践しています。

*2:それから、おそらくネギ類は不要です。とろみ要素の本質は小麦粉であり、ネギ類は「つなぎ」だと思われるからです。ネギ類は「あった方がいい」程度の存在ではないかと疑っています。

*3:ウスターソースは味のブースト要員なので、なくてもよいです

*4:趣味として、スパイスは削る方向で考えています。コリアンダーも削りたいところです。

*5:つまりルウやペーストで作るインスタントなカレーは、カレーという概念全般の中では、構造からほぼ外れた、かなりの異端であるということです。

*6:蛇足ですが、高級なペーストならともかく、市販の固形ルウをつかうメリットは皆無です。「もうやんカレー」の店舗では、固形ルウで作ったカレーは「油丼」であるといったことが書かれていますが、これに強く同意します。固形ルウで作るカレーは、現代日本の家庭料理によく見られる、消費者を飼いならす目的で生産された「作られた伝統料理」の代表例です。

論文を書き、プールで泳ぐ

プールと私

  • プール行ってる
  • 毎日3時間書いたら、プール行って、1時間弱泳いで、スーパーで買い物して帰る
  • だいたい、週に3-5日くらい行く
  • プール行く人生(?)にしてみたいと思ったからプール行くことにした
毎日3時間だけ書く - 快適な生活

プールをめぐる制度

  • やばい時ほど毎日プール行く
  • それが重要
  • 2015年初夏〜初冬は、博論を含めて4本並行してひたすら論文書いたり*1、ウルトラガチ(?)なプレゼンテーションが何回かあったりしたので、その時期はとにかくプール行きまくった
  • なんかおかしいと思ったらプール行く

なぜプールか?

  • プール、なんか状態(?)がニュートラル(?)になる感じ(?)がする
  • プール行かない日がつづくと身体やメンタルに違和感でてくる
  • るろうに剣心緋村剣心は華奢な身体でやばい剣術やりまくったため次第に身体ガタガタになっていくんだけど、それ思い出した
  • とくに才能(?)とかない人間なので、毎日集中して研究とかしてると、身体とメンタルが異常なエリア(?)に引っ張られすぎて、悪影響(?)が出てくる(?)みたいな雰囲気
  • プール行かない日がつづくと、「研究やだな〜」みたいな思いが出てくる(実際はやじゃない)*2
  • プールに行くことで、身体とメンタルを普通にして、論文書く気持ちを無意味に縮減させずに済む
  • つか別にプールじゃなくてもいい


泳ぎの内容

  • 準備
  • ゆっくりクロール50m、バタフライ50m(肩をならす)、けのび(一回で12.5m)
  • 本番
  • 2.5分でクロール100m*4
  • 100mを2分で泳げたら30秒だけ休んで次の100mを泳ぐという制度
  • クイックターンはしてもしなくてもいい
  • それを4セット(計1600m)
  • 最近はヒマになってきたので、2セットとか3セットに減らした

テクノロジーなど

  • 筆者レベルのガチ初心者向けとして…
  • 口ではなく肺に空気を入れること、そのために丹田に力を入れられるようにすること*3、これらによりうつ伏せで真っ直ぐに浮き続けられるようになること*4、2ビートとかで泳げるようになること
  • YouTubeで学ぶこと
  • PDCAまわすこと(楽しい)

想い

  • クロールは軽めの6ビートで泳いでる
  • 筆者は2015年に本格的にプール行くまで、知識水準が中学校の水泳授業で止まってた上に、さほど体力ないので、おぼれ死にそうになりながら200m泳ぐのがやっとみたいな状態だった
  • 2ビートとか6ビートとかまったく知らなかったし、キックはバタ足って呼んで無秩序にバタつかせるものだと思っていた
  • しかし筆者がいま手にしているインターネットはすごくて、インターネットで調べると、最先端の水泳理論とか泳法についてたくさん学べるし、YouTubeの水中映像や、教えてグー(?)の体験談などで分かりやすく知識を得ることができる
  • 水泳学習めっちゃおもしろくて、毎晩インターネットで水泳知識を仕入れて、翌日それをプールで試して、その反省に基づいて新たな水泳知識を探して考えて理論構築して…という繰り返しで、一時期は日がな一日水泳のことばっか考えてて、水泳に没頭してたし、泳ぐために生きてる感じだった
  • 没頭してたころ、研究のこととか研究してる時しか考えてなかった(いちばん論文書きまくってた時期)
  • 通ってるプールの監視員のオッサンに「レッスンなしでこんなに上達した人はじめて見た」って言われて、通ってるプールは40代以上の人しかいないからじゃん?*5っていうのもあるけど、インターネットすごいな〜って思った

議論

  • インターネットがあればなんでもできる
  • やばくなったらプール行く
  • これは稿を改めたいけど、筆者は「普通に生きて普通に研究して普通に論文出す」ことをすごく重要視している
  • (大きい事業(?)*6は「頑張る」くらいで実現できるほど甘くないということ)
  • プールは、「身体を動かすこと」「習慣にすること」の2側面から、筆者に「普通」をもたらしてくれた
  • 身体的にはあんま変わってないのでは?*7
  • プール飽きてきたし別のにしたい。ジョギングは筆者がかわいそうなのでやりません
  • フリスビーにシフトしたい

  • インターネット最高!

追記

  • ていうかこんなん書いてたら査読論文の受理がお知らせされて、おまじない感あった。

*1:4本という数字の位置づけは個人の能力や分野により異なりうるが、筆者的には例年の4倍くらい

*2:実際は、たんに毎日おなじ姿勢で作業つづけてるとよくないとか、おなじことだけしてるから飽きてるみたいなやつだと思う

*3:はじめは力が入らないけど何日もやってると力が入るようになる

*4:いわゆるフラットスイム

*5:やや高額な会員制のプールで、アンダー30の会員は筆者しかいない

*6:ここでいう「大きい」とは「筆者にとって・規模が・大きい」という意味であり、価値の大小とは無関係である

*7:さらに顔面が痩せた、肩がガッシリした等の意見が得られたが、プールに起因するとは断定しがたい。体重も変わってない。ただし、タイトめに着てた上着がキツくなった。

2015年に買ってよかったのはお皿たち

  instagramなどをしてると、ナイスな皿をつかうことで、ナイス・スタイルな暮らしに突入できるような気がします。そうでもないです。すなわち2015年はなんとなくお皿を集めました。いつの間にかお皿をdigるのが趣味になってました。

以下、お皿に関するトークです。

冬、ベトナム

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  2月くらいに東洋文庫ミュージアムに売ってたベトナム皿です。イスラーム展見にいったときに一目惚れして買いました。たぶん800円くらい。見てると輪廻って感じがしませんか。いちばん好きな皿です。右上が欠けた。さらさらとした質感が心地よい。


初春、小皿

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  3月、つくば駅の商業施設に入ってる、なぞの渋い食器ショップでゲットしました。500円くらいの小さい皿で、漬物とか載せたりすることが多い。ツルツルでいびつでかわいい。


初春、鳥のお皿

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  3月、うえのお皿と一緒に買いました。1200円とかで、かわいい景観と同心円模様の対比が好きなのですが、このお皿に合う食べ物を見つけられていない。ツルツル。


春、大きなプレート

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  春、212キッチンストアで安売りされてて、1000円くらいで買った大きなプレート皿です。真っ平らなお皿がほしいと思って日々を過ごしていたら真っ平らだったので購入に至りました。真っ平らは使い心地がいいので、無地のプレート皿も欲しくなりました。


初夏、四角い小皿

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  初夏、212キッチンストアでセールで200円くらいで買った小さいお皿なんだけど、あまり気に入ってません。これつかうなら2枚目に紹介した小皿をえらぶことが多いです。


初夏、細長い平皿

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初夏、つくば市のショッピングモールの謎のお皿ショップか212キッチンストアのどっちかで1000円くらいで買った、細長い平皿(?)です。ザラザラしている。ローストビーフや茹で鶏なんかを食べるときに重宝しています。


夏、かっこいいお皿

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夏、新宿高島屋で買った1500円のカッコいいお皿です。中央部に台がついていて、全体が浮かんでいるように見えます。黒地に白で線が引かれていて、白の部分はすこしだけ盛り上がっている。上下に湾曲しています。すごい好きなお皿で、ジャケ買いしたんですが、さすがに載せるものを選ぶお皿なため、わざわざこのお皿に使えそうなメニューを考えたりします。


晩夏、平たいご飯茶碗

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晩夏、表参道でお皿digってたら発見した、平たいごはん茶碗です。1200円くらい。平たいので、ふつうのお皿としても使える。表参道はいい感じのお皿ショップが多くて、お皿diggingに適しています。

晩夏、葉っぱのカレー皿

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晩夏、西武百貨店つくば店で発見した、エミーズの大皿です。1000円です。カレーやなんかのほか、焼きそばや丼もの、ハンバーグやローストポークなど、大ぶりな料理はだいたいこのお皿に任せます。ややいびつな形にさらさらした質感とかわいい葉っぱが、使用者に安心感を与えます。


冬、プレート

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12月、西武百貨店に置いてあった、なんとかっていうブランド(?)のプレート(?)です。1000円でした。これめっちゃかわいくないですか。西武になんとなくdigりにいったら一目惚れして即買いしました。ショートケーキを載せたいのですが、家でそういう機会はないです。

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議論

  以上が本会におけるお皿自慢になります。記述したとおり、筆者は安価なお皿ばかり買っています。アラビアやなんかも欲しいんですが、単純にお金に余裕がないので、3000円以内くらいまでのお皿を集めています。

  筆者はヒマさえあれば手近なお皿ショップに足を運んでお皿を眺めています。伊勢丹新宿店とか行きまくってるけど、なぜかまだ一枚も買ってないといった事例も見られます。なぜかお皿を作りたい欲はまだ出てなくて、たぶん筆者のお皿に関するセンスや感性が未熟なので、そういう発想になっていないのだと理解されます。

  くわしい方がみたら違うのかもしれないけど、こんな安いお皿たちでも、丁寧に探すとかなりラブなお皿に出会えることがわかりました。

  集めているお皿に統一感がありませんが、計画的な全体の統制よりも、異質な出会いや物語を持つ個が調和した集合体の形成を視野に入れています。料理するのも食べるのも好きですが、お皿はそのどちらの楽しみもエンパワーメントしてくれて、尊い存在です。