博士課程でやらなくてよかったこと

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 博士課程でやるべきことの話は多いけど、やらなくていいよ的な話は少ない気がする。

 「これはやらない方がおすすめ」ではなくて、ただの思い出話です。社会があまりに終わってるから記憶のなかを生きることにしたんだ。そんなことはないです。あと「やってみてイマイチだったこと」と「はじめからやってないこと」が混在してるので適宜アレしてください。

 

前提

  • 国立大学の理科系の組織にある人文社会科学系の大型研究室にいた。
  • 進路は大学教員一択で、3年で学位取得。博士号が「足の裏の米粒」の時代は概ね終わっている気がしていますがどうですかね。起業とか会社・機関への就職など希望進路がちがうと別の物語になると思う。
  • 修士で出るひとには当てはまらない気がする。
  • 学振はDC2補欠落ち(マジ最悪に中途半端な結果だったと思う)
  • 読み返して思ったけど、下記のことは「異常なまでのめんどくさがり」という自分の欠陥に起因する部分も多い気がしてきました。すると、ちゃんとした皆さまが読む価値ないのでは?

 

D3のときの記事→  毎日3時間だけ書く - 快適な生活

 

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やらなくてよかったな〜

  • 学会で人脈作り、名刺配って挨拶まわり→メジャーな雑誌に論文が出れば何もしなくても名前は知られるし、興味を持ってくれる人が出てくる。逆に論文が出てない院生の名前なんか誰も覚えない。いまでもお世話になってる他大学の教授に東大前駅のホームで「ていうか君はまだ論文載らないの?論文ない院生って透明人間だよね」って言われた。
  • 学会でたくさん発表する→斯学では学会発表は業績にならないので。ていうか途中から顔すら出さなかった。テニュアになってからは旅行・同窓会・情報交換・委員会の仕事のために出てるけど、いまでも発表はあまり興味ない。発表聞くなら論文読めばいいし、発表するなら論文書けばいいじゃんって思う。
  • 学外のいろんな勉強会や研究会に出る→特に重要な1つに出ればよくないですか。逆にそこには継続してきちんと顔出して、いろいろ裏方もやって、運営に貢献した方がいい。友達グループじゃなくて、ちゃんとした研究者が出てるところね。人脈は学会ではなく、ここで作る。
  • 毎日ひたすら長時間研究しまくる→そんなの3年間も続くわけないっしょ。えっ続くの?すご……………
  • SNSで本名アカウントで情報発信→だれも興味ないっしょ
  • 一般向けのメディアで記事書いたり企業とコラボして仕事したり→論文書けばよくないですか、、
  • バイト→同上。ていうかあんまバイトして稼いでると研究できなくなって学位取得や就職が遅れて生涯賃金で損すると思いますが、、
  • 研究室の雑務を回避する→よく雑務は回避しろと言われるが、大学教員になってからも研究を続けたければ、院生のうちに研究時間を確保しつつ適当に雑務をこなすトレーニングしといた方がいいと思う。
  • すばらしい論文を発表する→凝りに凝った名作論文は身分が安定してから作ればいいと思う。院生のうちはメジャー雑誌から論文を出すこと自体に意義がある。限られた時間でどこまでやれるかも研究者としての重要な資質だと思う。
  • 指導教官のお誕生日会→ボスは人格者だったので院生たちが自発的にやってたんだけど(いい話)、無視させていただいてた。だって指導教官への最大の恩返しは誕生日を祝うことではなく、自分がとっとと一人前の研究者になることでしょ……と突っ張ってたけど、いま考えればべつに1日くらい出たって変わんないよな。すまん。こんど出るわ。
  • 自分の研究内容についていろんな人に意見を聞く→どうなんだろう。卒論や修論じゃないので、あんまいろんな人に意見聞いても、いろんな意見が出てくるだけだと思うが、、、。ていうか博士課程で学術的に説得せねばならぬ相手って、じつは査読論文の編集者・査読者と学位審査の副査くらいなので(主査=指導教官は、じつは実質的に審査される側)、その人たちがどう考えるかを考えた方がいいと思う。
  • 指導教官に研究指導してもらう→名目はともかく、博士課程はセミプロなので、少なくとも自分の研究については自分が指導教官に指導できる必要があるじゃん。指導を乞うてもたいしたことしてもらえないと思う。逆に指導教官に指導してもらってよかったのは、そもそも研究者なり大学教員とは何なのかみたいな心がまえとか、学会の細かい情報とか、うまいラーメン屋の所在とか
  • 本の執筆に協力する→自分以外の誰かが編著者である本の第7章の執筆に参加するとか。そういう本よくあるじゃん。読者的には役立つんだけど、でも、本棚にある本の第7章の執筆者の名前とか誰も記憶してなくないですか? このへんは価値観いろいろだろうけど、わたくしは他人の本の一部を書いてあげてるうちに自分の研究できなくなっちゃった人をたくさん見てきました。まあ院生にとっては、自分の書いたものが本になるってすごい魅力的に見えるんだけどな、、、、自分は幸運なことに院生のときこういう「おいしい話」は来なかったけど、当時は「クソッ何で俺にはああいう話が来ないんだ!(理由: 人格に難があるから)」って思ったもん。までも人それぞれか。人それぞれかとか言ったらこのブログ記事存在意義ないのでは?

文化庁が交付を撤回した補助金は何か?

 文化庁が「あいちトリエンナーレ」への補助金の交付を撤回した件は,たいへん興味深い.ちょうど,日本の地方においてどのようにして美術展覧会=芸術鑑賞機会が形成されるのかということを研究しはじめていたので,勉強がてら,あくまで自分のためにメモ書きを残しておくことにした.といっても,1時間程度しか調べていない内容である.

 先に書いておくが,筆者はまだ専門家ではない.また「あいちトリエンナーレ」への脅迫は許されないし,一連の展示はそのまま展示されてほしかった.今回の文化庁の対応もおかしい.そうした立場のもとで,下記のようなことを考えている.記事があんまり怖くならないように,いらすとやでかわいいキャプション画像を用意した(表現の自由).

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■その補助金とは何なのか?

 文化庁が「あいちトリエンナーレ」への交付を決定していた補助金(約7,800万円)を,交付中止とした.この問題の議論において,その補助金事業の性質を理解することは不可欠である.しかしながら,補助金の内容に触れている論者は,なぜか見当たらない.

 採択された事業名が表記されている新聞記事もあるが,事業内容には触れられていない.

あいちトリエンナーレへの補助金 文化庁が全額不交付決定 「申請手続きが不適当」 - 産経ニュース
東京新聞:トリエンナーレ補助金不交付 「愛知県の手続き不備」 文化庁方針:社会(TOKYO Web)
補助金不交付に抗議/文化庁に本村・井上・吉良氏ら

 なお,たとえばこれらの記事では,事業名にすら触れられていない(というか,ネットで読めるだいたいの記事がそうである).

脅迫→展示中止→補助金不交付「あしき前例」 不自由展 [「表現の不自由展」中止]:朝日新聞デジタル
東京新聞:萎縮の波 自治体不安 トリエンナーレ 補助金不交付:社会(TOKYO Web)

 下記の記事は事業内容に触れられているが.その説明の仕方は後で見るように不十分である(たぶん,触れているのは有料会員限定の部分).

「国が交付を予定していたのは文化庁の文化資源活用推進事業の補助金。地域が誇る文化観光資源の体系的な創成・展開▽文化による国家ブランディング強化▽観光インバウンドの飛躍的・持続的拡充などを要件に公募し、有識者の審査を経て4月に採択された。」

あいちトリエンナーレへの補助金を交付せず 文化庁発表:朝日新聞デジタル
 さらには,change.orgでは,アーティストを中心に補助金の交付中止の撤回を求める署名活動が行われ,9万人以上が賛同しているが,そこですらも,その補助金がどのようなものであるのかについては一切触れられていない.これらの活動・記事には違和感をおぼえる.なぜ核心部を見ないのだろうか?
キャンペーン · 文化庁は「あいちトリエンナーレ2019」に対する補助金交付中止を撤回してください。 · Change.org
「あいち」補助金不交付は、なぜ危険なのか - 高山明|論座 - 朝日新聞社の言論サイト


■その補助金

 さて,問題の補助金は,「日本博を契機とする文化資源コンテンツ創成事業(文化資源活用推進事業)」だと思われる.事業名や採択された補助金額から間違いないと思われるが,もし間違っていたらぜひご指摘願いたい.
 当該事業の内容は文化庁のサイトから閲覧できる.注目すべきは,事業目的と補助対象事業である.ここに,この補助金の特性が現れている.

日本博を契機とする文化資源コンテンツ創成事業(文化資源活用推進事業)の募集 | 文化庁

 内容を引用する.

事業目的

「日本博」の開催を契機として,各地域が誇る様々な文化観光資源を体系的に創成・展開するとともに,国内外への戦略的広報を推進し,文化による「国家ブランディング」の強化,「観光インバウンド」の飛躍的・持続的拡充を図ります。 

補助対象事業

「日本博」の開催を契機として,地域住民や芸・産学官とともに取り組む,地域の文化芸術資源を活用した文化芸術事業であって,観光インバウンドの拡充に資するもの。

 事業目的,補助対象事業のいずれも,観光インバウンドが強調されていることがわかる.
 さらに,PDFで公開されている募集内容をみると,上記の事業目的,補助対象事業に加えて,実施計画の要点の中に「観光インバウンドの拡充に資する取組であること」が明記されている.
 より重要なこととして,審査について,観光インバウンドに関する点だけが下線で強調されている.このことは補助金交付の審査の際にも,外国人観光客の誘致力が最も重要な評価ポイントとされていることを示唆している.

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 また,おなじくPDFで公開されている,当該補助金の実施計画書の様式(つまり今回愛知県が提出した申請書)をみると,2019年度の実施計画のなかに,観光インバウンドの拡充に資する取組という欄が設けられている.さらに事業の達成目標を数値で記載することが要求されるが,ここでは「参加者数の目標値」には訪日外国人数の記載欄が設けられ,また「観光インバウンド拡充の指標と目標値」を記入しなければならない.
 この補助金の交付を受ける上で,いかに外国人観光客を誘致できるかが重要となるかがわかる.

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 すなわち,この補助金の主要な目的は,観光インバウンドの拡充,つまり,外国人観光客を誘致することなのである.そしてそれが,この補助金が交付された地方公共団体自治体)に求められることなのである.一連の公募内容を見れば,最大の目的が外国人観光客の誘致による観光振興にあることが明らかである.文化芸術の振興それ自体のための補助金ではないのである.

■「日本博」という文脈

 こうしたことは,文化芸術に関する省庁が提供する補助金としては異色であるように思われる.部外者である筆者が一連の文書を閲覧すると,なぜ文化芸術で観光振興なのだろうかという疑問を抱かざるを得ない.だがそこにはおそらく,この補助金名に含まれる「日本博」がある程度関係している.

日本博 | 文化庁
 「日本博」は,文化庁が2020東京オリ・パラに向けて外国人観光客を地方に誘致するために実施されている,政府の決めた「日本の美」をコンセプトとした一連の事業である.資料を読めばわかるが,ある種の国粋的な事業である.

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f:id:kaiteki61:20191001002326p:plain だから「日本博」の文脈下で企画された今回の補助金は,文化芸術の振興ではなく,日本政府が決めた「日本の美」を表現する芸術作品を使って,外国人観光客を呼び込むことを目的としているのである.
 ちなみに「日本博」については,触れられている記事などを目にすることができなかった.当該補助金の事業内容のページを見れば明らかに不自然に「日本博」という言葉が挿入されているにも関わらず.
 さらには,憶測だが,今回の展覧会に名古屋市長などの公人・政治家が苦言を呈した一因は,日本政府が決めた「日本の美」を称揚する「日本博」の補助金をとっているのに「日本を貶める」ような作品を展示するのはおかしいではないか,という意識があるのかも知れない.そうしたロジックであるとすれば,筋自体は通る.

 ちなみに来年,国立新美術館で開催される「ファッションインジャパン展」なども,「日本博」の一部である(主催者).だれも気づかないと思う.筆者としては,国粋主義的政策の展示だと気づかずにこれを称賛したくはない.

f:id:kaiteki61:20191001004434p:plainファッション イン ジャパン 1945-2020 —流行と社会 / Fashion in Japan 1945-2020
ファッション イン ジャパン 1945-2020 —流行と社会|日本博 Japan Cultural Expo|縄文から現代まで続く「日本の美」

トリエンナーレという名の観光イベント

 すなわち,少なくとも補助金の性質から見れば,「あいちトリエンナーレ」は,イタリアのヴェネツィアビエンナーレ(Biennale di Venezia)や ドイツのドクメンタ(documenta)のような,純粋に芸術振興を目的としたり,その芸術の価値を議論したりするための「美術展覧会」ではないのである*1
 そうではなく,この展覧会は,「すでに価値があるとされている美術作品」を客寄せの装置=ショービジネスとして名古屋に集めて,そこに(外国人)観光客を誘致して地域経済を活性化させるための「観光イベント」なのである.極端に言えば,やっていることは,商店街の地域活性化のためにアイドルを呼んで歌って踊ってもらうのと同じ種類の催しである.
 しかし,多くの人は「あいちトリエンナーレ」を「美術展覧会」だと思っているし,その目的は観光振興ではなく文化振興だと思っている.これこそが,この問題をめぐる重大な認識の誤謬であると筆者には思われる.
 (念の為に言うが,筆者は「あいちトリエンナーレ」という事業の構図を整理したいのであって,この展覧会が芸術的に無価値だといいたいわけではない.その価値判断はこの記事ではしない)


文化庁はなぜ交付撤回したか

 こうした補助金を交付した文化庁は,その交付撤回の理由を,次のように述べている.

補助金申請者である愛知県は,展覧会の開催に当たり,来場者を含め展示会場の安全や事業の円滑な運営を脅かすような重大な事実を認識していたにもかかわらず,それらの事実を申告することなく採択の決定通知を受領した上,補助金交付申請書を提出し,その後の審査段階においても,文化庁から問合せを受けるまでそれらの事実を申告しませんでした。

あいちトリエンナーレに対する補助金の取扱いについて | 文化庁
 この「来場者を含め展示会場の安全や事業の円滑な運営を脅かすような重大な事実」を,多くの人はテロ予告や脅迫のことであると考えている.そして,それを事前に予期することは不可能であり,あまりに不条理である,理解不能であると批判している. 
 しかし,「あいちトリエンナーレ」が「美術展覧会」ではなく「観光イベント」だと理解すれば,別の解釈が可能となる.つまり,「来場者を含め展示会場の安全や事業の円滑な運営を脅かすような重大な事実」とは,「テロ予告や脅迫」ではなく,「テロ予告や脅迫が行われることが容易に予想される作品が展示されること」と予想される.

■交付を撤回するロジック

 もしこれが「美術展覧会」ならば,そのような作品であっても展示すればよいし,展示すべきである,というロジックは成立する.
 しかし「観光イベント」ならば.そうした作品を展示するつもりならば,予想されるテロ予告や脅迫に対する特段の安全対策を講じることが常識的に考えて絶対不可欠であり,それにも関わらず,実行委員会はそれを怠った,というロジックがここに成立する.
 むろん筆者は文化庁の官僚ではないので,その内実はわからない.しかし少なくとも文化庁は「あいちトリエンナーレ」を外国人観光客を誘致するための「観光イベント」として捉えているのだから,後者のロジックで思考することに,無理があるとは思えない.後者のロジックであれば,文化庁が実行委員会を批判し,補助金の交付に物言いをつけること自体は(全額不交付にするか否かは別の問題としても),筆者にはそれなりに自然なことと理解することができる.
 おそらく多くの人は,今回の補助金を「文化庁が,芸術文化を振興するために与えた補助金」だと理解していると思われるが,そうではない.この補助金は,「文化庁が,すでに振興されている芸術文化を使って外国人観光客を呼ぶために与えた補助金」なのである.この認識のズレに,文化庁の対応の「不可解さ」が生じた鍵があると,筆者には思われる.

文化庁への批判

 このように考えると,先のchange.orgでは以下のように批判されているが,やはり筆者には部分的に理解しがたい内容を含んでいる.繰り返すが,筆者は今回の文化庁の対応には問題があると考えているが,いま見られる文化庁に対する諸批判は,今回の問題の本質を捉えていないように思われる.

キャンペーン · 文化庁は「あいちトリエンナーレ2019」に対する補助金交付中止を撤回してください。 · Change.org

そもそもいったん適正な審査を経て採択された事業に対し、事業実施中に交付を取り消すことは、国が該当事業のみを恣意的に調査したことを意味します。

→ 補助金というのはそういうもので,申請書の内容と実施内容に著しい乖離があったり,実施内容に大きな不備があれば補助金の交付を撤回するのは当然である.また,補助金を交付した事業に何か問題が発生したら,結果的に撤回するか否かは別としても,それを判断するために,その事業について調査するのは当然であろう.それを検閲と表現するのが妥当だとは思えない.

予定どおりの実施が困難になった「表現の不自由展・その後」の支出は約420万円にすぎず、約7800万円の補助金全額の不交付を根拠づけるには全く不十分です。

→ 文化庁は,申請書によればその支出を切り分けることができないから全額不交付としたと述べている.愛知県が提出した申請書の中身は見つけられなかったので,その主張の妥当性はわからない.ただ少なくとも筆者は,今回の件で全額不交付は重すぎるとは思うので,この点は同意である.文化庁は最低でも,「全額不交付」とした理由を,今後より詳細に説明すべきであろう.

報告の有無についても、通常の助成金の過程では、申請者と文化庁双方からの報告や聞き取りが前提となります。今回も、文化庁は騒動時に愛知県に問い合わせをしていますし、さらには報道が過熱したことからも、騒動については周知の事実であったと考えます。

→ 問題は騒動が起きる前にあったのだと思われる.つまり文化庁は,観光イベントである本展覧会に,騒動が起きると分かりきっている作品を展示して,かつ必要な特段の安全対策を講じなかったことを問題としているように思われる.

その騒動から展覧会が中止になり、事業の継続が見込まれなくなった、との理由もあまりに一方的ではないでしょうか?展示中止を迫った中には市長などの公人も含み、そして過熱したのはテロ予告や恐喝を含む電凸などです。 作品の取り下げを公人が迫り、それによって公金のあり方が左右されるなど、この一連の流れは、明白な検閲として非難されるべきものです。

→ 確かに公人も作品の取り下げを迫ったが,おそらく文化庁が指摘した問題は,公人の発言ではなくテロ予告や脅迫の方である.公人の発言は明らかに圧力ではあるが,公人は文化庁の人間ではない.公人の発言は文化庁の問題ではなく,公人の問題である(元東京芸術大学学長である文化庁長官の発言ならともかく).また,文化庁が公人の発言に屈したから交付を撤回した,という解釈は,そうである蓋然性は否定しないが,現状では勇み足ではないか?(というか,このパラグラフは文意不明である……).

■「観光イベント」だと表明すべきでは?

 もし,今回撤回された補助金が,日本博や「文化資源活用推進事業」ではなく,純粋に文化芸術の振興を目的とした補助金である「文化芸術振興基金」であれば,それは検閲,あるいはそれに準ずる,文化芸術の表現に対する国家的な制限や圧力だと,明らかに言える.

芸術文化振興基金 | 独立行政法人 日本芸術文化振興会
 しかし今回の「あいちトリエンナーレ」は,美術展覧会の姿をした「観光イベント」として補助金申請が採択されているのである.
 さらには,その補助金に申請書を出した「あいちトリエンナーレ」実行委員会も,それを承知の上だったはずである.「あいちトリエンナーレ」は自ら,開催目的のひとつに「地域の魅力の向上」を掲げており,これは観光振興を意味として含んでいる.

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開催・企画概要 | あいちトリエンナーレ2019
 しかし「あいちトリエンナーレ」の実行委員会は,自らの催しが本質的に「観光イベント」であることを,あまり表明しない.あるいは少なくとも,自らを「観光イベント」と位置づける補助金によって開催されていることをあまり表明しない.だからみんな,「あいちトリエンナーレ」を「美術展覧会」だと思って訪れるし,今回の問題も,「美術展覧会」をめぐる問題として扱われるのである.
 トリエンナーレに参加したアーティストたちは,少なくとも「あいちトリエンナーレ」が採択された補助金が「観光イベント」のための補助金であることを理解していたのだろうか?それを理解せずに出展し,文化庁を批判しているのだとしたら,筆者にはとても滑稽な構図にみえてしまう.
 実行委員会は,自らの展覧会が,少なくとも政策的・行政的には「観光イベント」であることをもっと表明すべきだったし,表明すべきである.

■より本質的な「表現の自由」の問題

 繰り返すように「あいちトリエンナーレ」は,外国人観光客を集めるために「すでに価値があるとされている美術作品」を並べた「観光イベント」である.本質的な問題は,そのような「観光イベント」にしなければ,地方では「美術展覧会」が開催できないという構図・状況にある.
 つまり,後から文化庁が物言いをつけることが,「表現の自由」を損なっているのではない.はじめから外国人観光客向けの「観光イベント」にしなければ美術作品を展示できないように補助金が設計されていることが,私たちの表現の自由を,あらかじめ損なっているのである.そこにこそ,本質的な意味での「表現の自由」の問題があるのではないか?
 問題は,文化庁による「補助金の交付の仕方」にあるのではない.そうではなく.そもそも文化芸術作品を客寄せの装置とするような「補助金の設計の仕方」にある.

■文化芸術基本法

 では,なぜこうなってしまったのか?
 おそらくそれは,文化芸術基本法にある.そもそも文化庁は文化芸術基本法の規定を受けて,それに必要な施策を講ずる文部科学省の外局である.文化芸術基本法は,平成13年に交付された文化芸術振興基本法が平成29年に改正されてできた法律だが,その第二条にはこのような記載がある.

文化芸術基本法(改正 平成二十九年六月二十三日)
第二条
文化芸術に関する施策の推進に当たっては,文化芸術により生み出される様々な価値を文化芸術の継承,発展及び創造に活用することが重要であることに鑑み,文化芸術の固有の意義と価値を尊重しつつ,観光,まちづくり,国際交流,福祉,教育,産業その他の各関連分野における施策との有機的な連携が図られるよう配慮されなければならない。

文化芸術基本法(平成十三年法律第百四十八号)改正 平成二十九年六月二十三日 | 文化庁

 ここでは,文化芸術を観光のために使うことを法的に求めているのである.そしてこの記述は,改正前の文化芸術振興基本法にはない.というか「観光」という単語すら出てこない.

文化芸術振興基本法(平成十三年法律第百四十八号)(平成十三年十二月七日公布) | 文化庁
 つまり「観光イベント」としてでなければ地域的な美術展覧会が開催できないという構造が,文化芸術基本法のレベルで政治的に形成されているのである.なぜ観光庁経済産業省ではなく,文化庁が文化芸術を商品化しているのか?まさにこれこそ国家政府が文化芸術を制限する「表現の不自由」ではないか?

■表面的な「表現の自由」が叫ばれている

 繰り返すが,筆者は「あいちトリエンナーレ」への脅迫は許されないと考えるし,文化庁による交付金全額の交付撤回は問題だと考える.さらにその背後には政治的な圧力がある程度働いているとも憶測する.
 だが,それをめぐって多くの人々が行っている批判には,問題の本質を捉えていないようなもどかしさを感じる.さらには,補助金の交付・不交付の問題なのに,その補助金がどのようなものかを,誰も,ろく議論していない粗雑さに違和感をおぼえる.筆者がもっとも理解できないのはそこである.
 たぶん,今回の補助金不交付の問題は,これだけ問題になれば,補助金の全額不交付は部分的に撤回されそうな気がする.しかしそれで,補助金の内容も確認していないアーティストや美術愛好家たちが,ごく素朴に「表現の自由」が守られたなどと勝鬨をあげるのかと思うと,正直なところ,いったい「この人たちのいう『表現の自由』って何なんだろうか?」と,暗澹たる気持ちになった.
 我々の「表現の自由」は,すでに政策的にあらかじめ損なわれている.我々は,もし今回,補助金不交付が撤回されたとしても,すでに文化芸術やそれが展示される空間や地域を商品化して外国人観光客の誘致のための装置とするような社会を生きているのである.そこにこそ本当の「表現の自由」の問題がある.
 あらかじめ損なわれている「表現の不自由」の手のひらの上で,ショボい「表現の自由」を勝ち取ったと喜ぶ滑稽なダンスを,俺は踊りたくない.

 

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 蛇足ながらさらにいえば,筆者は,特に地方では,文化芸術を観光客誘致の商品や装置にしなければ美術展覧会が開催できない,という政策的な「表現の不自由」は,必ずしも絶対悪だとは考えていない.むしろ日本は欧州と比較して,文化芸術に対する社会的な支援の公的・非公的な制度が進んでいないとされるが,そうした日本の現状にあっても,文化芸術を客寄せ装置にせざるを得ない「不自由」によって,人口的・経済的に条件の不利な地方においても美術展覧会を開催することができるという,ある種の「自由」が地方で成立するという解釈が可能ではないかと考えているからである.そしてそのような,ある種の不自由と自由の相克とバランス,より専門的に言えば,アイザイア・バーリンの言う「消極的自由」の意味での「不自由」=文化芸術の観光客誘致の装置化と,「積極的自由」の意味での「自由」=美術展覧会の開催とは,本質的に常に相克の関係にしかなり得ず,そのバランスの中で,日本の地方において美術展覧会という芸術鑑賞機会が地域的に生産されていくのかもしれない.いずれにせよ「展覧会とは何か?」ということを,文化芸術の人間たちが自明としてきた枠組みに対して,批判的に考え直すことが必要だと考えている.こうした思考をするなかで,今回の事例は勉強になったというか,いいケーススタディである.

*1:すみませんヴェネツィアドクメンタが本当に純粋に芸術振興を目的としていて観光振興目的になっていないとは言い切れないので,この断言は少々危険.

Apple Watch

概要
  • Apple Watch着用してる
  • 見た目がかっこいいから
  • ステンレススチールにシルバーのミラネーゼループ着用
Apple?Watch Series?4(GPS?+?Cellularモデル)- 40mmステンレススチールケースとミラネーゼループ
 
様子
  • 任意の画像に日付・曜日・時刻だけ表示する文字盤にしてる。カメラロールやPinterestに保存した画像使ってる。

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instagramの知らんアカウントのスクリーンショット

 

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→ たぶん旧劇エヴァ伊吹マヤがL.C.Lに還元される直前のシーン(いや、シンクロ率400%のシーン?)

 

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→ プールの絵

 

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tumblrでみたムーミンの作者がムーミン描いてるgifアニメのスクショ

 

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→ 翔んで埼玉の人

 

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→ とんかつとDJが同じだと気づくシーンのアニメ版

 

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→ 幽白(あーでも仙水の方が好きなの思い出した、、、、)

 

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→ いちばん気に入ってる。ブライアンイーノに捧ぐApple Watch

 

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→ ハルシャの絵、チャーミングな旅のやつ

 

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→ これも同じ。「ここに演説をしに来て」っていう画題だった気がする

 

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国立新美術館で見た名言(作品ではなかったと思う)、「他の人には重要だけど自分はいらない物を買いましょう」

 

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→ 「飢えてる、美に飢えてる(It's a famine of beauty, a famine of beauty, honey! My eyes are starving for beauty.)」って会社で巨漢が騒ぐのを制止されてるとこ、VOGUEのドキュメンタリーの好きなワンシーン

 

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→ フォローしてる人がアップしてた写真

 

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→ 人生 チョロかった アハハハハッ

 

⇒ これらをその時の気分で使い分けている(たのしい)。

 

なんでApple Watch
  • Apple Watch、腕時計としてかなり考え抜かれた、完成度の高い設計なのでは?ってなった(今更)
  • あとファッション系の記事を色々みてて、合わせ方によってはオシャレだと思った(今更)
  • エルメスの二重巻きベルトが最高にかっこいいと思ったけど、さすがに高すぎるというか、背伸びなのでやめた。
  • ミラネーゼループは最高。マグネットで簡単に着脱したり締めつけを調整できる。
  • まあ詳しくは以下の諸記事とかを、、

【検証】Apple Watch Series 4は買い! 時計のプロは意外な視点から断言した! | アイテム | LEON レオン オフィシャルWebサイト

29people 29ways —29人のアップルウォッチ | Vol.3 クリエイター編

ITガール注目!最新のApple WATCHコーデはコレだ♡ | meew (ミーウ)

便利?
  • 不便
  • 時刻を確認するなら普通の時計の方が遥かに楽だし早い。手首を動かさないと画面が表示されない。
  • つうか便利機能みたいなのは一切使ってない。アプリも使ってない。通知も全部切った。そのうち全アプリを消すと思う。
  • スマートウォッチではなく、ただの時計にしてる。
  • なんかいろんなネットの記事見るとみんないろんな機能使いこなしててちゃんとしててすごい……

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→ いきなり心拍数とか呈示されても困惑する。

テクノロジーの狂気
  • 最初はなんも設定してなかったので、教授会の最中にいきなし時計が震え出して「1時間経ちました、そろそろ立ち上がりましょう!」みたいなこと画面に表示して説教してきて素のApple Watchやばかった。じゃあ前が電子音声で学部長に早く終わらせましょうって申し送りしろよ(ちなみにうちの教授会は極めてスムーズなので大丈夫です)。
  • 某私大の知人、教授会が毎回7時間かかるって言っててやばかった。
  • あと青山ブックセンターで1時間とか本を物色してると「たくさん歩いていて偉いですね!」とかブルブルしてくる。正気か?こっちは買う本選ぶのに立ち読みしすぎて貧血寸前なの察しろ。
  • 購入当初は何だかんだ機能あるから一応使ってみるかと思ったけど、概して自分には不要なので切った。やはりいらんもんはいらん。

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→ いかにもスマートウォッチな文字盤も最初つかってたけど、俺はこれを美しいとは思えない……

服との合わせ方とか?
  • ステンレススチールのモデルは割と迫力あるので、全身キメキメにならないように、服装はほどよく外した方がいいと思っている
  • 「スマートウォッチ」ではなく「腕時計」として着用するなら、アルミニウムのモデルよりステンレススチールにした方がいいと思う。アルミニウムは「スマートウォッチ」だと思う、だからアルミニウムのを着用してる人をみると、コーディネートが難しそうだなって思う。あれはあれでオシャレだと思うけど
  • あと各種バンドも見た目的にステンレススチール向けに作られてるという印象を受ける。
腕時計わからん
  • ただ、ステンレススチールにミラネーゼループにすると10万円くらいする。
  • 筆者は申請が通ったので、ある研究予算で購入しました(テクノロジーによる身体拡張の空間的可能性と限界みたいな研究テーマなので)。
  • 腕時計あんま興味ないし、私費だったら、数年で買換え前提で10万円する腕時計は、多分買わないな…
  • でも31歳の腕時計って、それなりの値段の機械式にするか、ふざけてオモチャみたいなのにするか、適当にするかの3択しかなくて、べつにどれもいいと思うけど、筆者はそのどれも好みではなかった…
  • 特に機械式は、割とぶつけてしまう人間なので着用できない。Apple Watchのステンレススチールはサファイアガラス?(?)なのでなんか大丈夫らしいよ。アップルストアで熱血漢が教えてくれた。ビックカメラで買いましたを
  • なのでApple Watchという選択肢はありがたかった。でも二日に一度は充電が必要なのにはマジでウケてる。

翔んで埼玉の件

あんまネタバレではないと思います。

けものフレンズ」の話します
  • 翔んで埼玉、はじめの方のシーンで、両親と車で埼玉県内を移動中の埼玉の若者が無限に広がる田畑をバックに「埼玉には何もない!!!」みたいなこと絶叫するシーンがあるんですけど、
  • おかしくない?? いや、あるじゃん、田畑が………お前……
  • たしか「けものフレンズ」で、砂漠にきた時に「砂がたくさんある」っていうセリフあったじゃん、あれすごいいいセリフだよね。
何がないのか
  • 「何もない」というときって、名所名跡とか、華やかに買い物できるとこの話しかしなくないですか?
  • 「何もない」は「消費に値する場所が何もない」ということを意味してる。
  • じゃあなんで埼玉には「何もない」のか?
  • それは埼玉が消費の空間ではなく、生産の空間だからだよ
  • 生産の空間だから、田畑という「食料エネルギーの生産空間」がたくさんあるんだろが!生産の空間だから、埼玉で生まれ育ったんだろうが!「人口の生産空間」なんだよ、あと埼玉って工場もたくさんあんだろ!生産の空間だからだよ!!気合い入れろボケが。
  • いきなしデカい声出してすいません。
  • 埼玉には、たとえば「東京という大消費地の近くで新鮮に作物を輸送でき、かつ一定程度大規模な耕作が可能な農村空間」がたくさんあるだろが、「人並みの経済水準でも無理なく子どもを産んで育て上げることができる暮らしやすさ」があるだろが。クレヨンしんちゃんを全巻読め。
世界都市論
  • ちなみに東京は世界都市とかグローバルシティといわれていて、80年代にフリードマンやサッセンとかが、ロンドンとニューヨークと並べて東京をグローバルシティと位置付けたんだよね
  • でも近年の東京は生産ではなく消費しかできない場所になりつつある、という指摘もなされるようになってきていて、東京をグローバルシティと無批判に考えるのは無理があるのではないかということになっているよ
  • まあ世界都市論が日本経済絶好調の80年代に出てきたから仕方ない的な。サッセンとかは自説の誤りを認めた方がいいよ。
  • つまり、東京は消費の空間になってしまっているからこそ、「何でもある」のだと見なされてるんだってことだよね、虚しい空間である。(何が言いたいのかわかんなくなってきた)
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スパイシーな香り
  • 翔んで埼玉では、序盤でGACKTが全校生徒のまえで都会指数?のテストを受けさせられるんだけど、あれ格付け?の番組のオマージュでかなりよくないですか?
  • それでどんなテストかっていうと、都内のいろんな街で採取した「空気」の匂いを嗅いで、それがどの街のものかを当てるんです。東京のことをよく知ってれば分かるだろうっていうやつなんですね、銀座の空気とかが出てきた
  • そんでGACKTは、銀座とかが出てくる2問目までは順調だけど、最後の3問目で悩むんだよね。「なんだこのスパイシーな香りは…?」って困惑するの。都会指数が高いほかの学生たちもみんなわかんないけど、GACKTは悩んだ末、それが「西葛西」の空気だって当てて、ウオーッてなるの
  • ちなみにそんとき筆者は、「スパイシーな香り」の一言だけで西葛西だってわかりました。つうかこんなん常識なんじゃないの?(調子にのっている)
コリアタウンといえばどこですか?
  • このシーン、状況としてウケるのは、都会指数が高いとされる人たちが西葛西のことも知らんということ
  • 西葛西にインド人コミュニティがあることも知らない無知で、よく「都会人」を自負できるよなという、、、
  • たとえば、作中の都会指数が高い人たちに、「コリアタウンといえばどこですか?」って聞いたら、全員が大久保としか答えなさそう
  • じゃあ大久保ってなぜコリアタウンなのか知ってる?
  • いいですか大久保っていうのはね、前回の東京五輪前の建設ラッシュ時に全国から集まった日雇い労働者の街で(ハローワークが近くにあるのとインナーシティだったから)、それが五輪後の景気空白で労働者たちが去った後に、政治情勢が安定化してきた国々からアジア系移民が流入してきたのが、移民の街になったきっかけです
  • でね、2000年あたりまでの大久保っていうのは、だいたい半分弱くらいは中国人街でもあったんですね、そして韓国人街もあったんだけど、それは大久保の東側の若松とか榎っていう地域が中心だったの。おわかり?
  • ちなみにいまも駅の西側は多国籍だよ。
  • その頃住んでた韓国人たちは韓国企業日本支社の駐在員とかが中心で、いまのリトル明洞みたいな街の住民層とはちがうんです。お店も観光客向けではなくて地元の韓国人向け、本屋とか不動産屋とか床屋とか。いまみたく日本人向け飲食店とかコスメ店とかに変わったのは冬ソナ後と日韓ワールドカップ後です。
  • つまり大久保は戦後しかも80年代くらいから流入してきたニューカマー、あるいは2000年代以降に入ってきたニューニューカマーの韓国人の街である。
  • でも知られている通り、日本には戦前から韓国人(朝鮮人)が多い。大阪だけではなくて東京にも多い。東京の代表例は三河島ですね
  • 三河島コリアタウンだって知ってた?もはやニューニューカマーの韓国人たちすら知らないらしいよ。 
  • なんで突然コリアタウンの話してんだ大丈夫か?
無知な「都会人」
  • 何が言いたいかというと、地域の知識(地誌的知識)ってキリがないんだけどさ、たとえばコリアタウンにまつわるそんなこととかも知らないのに、単に「東京で生まれた」という偶発的な身体的事実のみを前提として「都会人」みたいな扱われ方がされることがあるじゃん、あれに俺はウケている。自由が丘で生まれたら都会人なんですか?
  • 「スパイシーな香り」のシーンでは、そういう、「東京」のごく一部の点の表層しか知らない人間たちが「東京人」を自負していることのおかしさ、それは世の中で生きていて非常にしばしば見られるおかしさであり、それが戯曲めかして演出されていて、良いんだよな、、、、、、あのシーン、、、抱いて、、、、
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地域概念の多様性
  • 本作、千葉と埼玉がどっちが上かっていがみ合ってるみたいな展開なんだけど、あれも世の中でよくあるけど変だよなって感じ
  • いいですか? すべての地域は、地域どうしが有機的に結びついて、お互いに機能を補いあって成立しているんです。
  • だから、たとえば東京と埼玉と千葉で、どれがいちばん優れているか、みたいな序列をつけようとするのはマジで無意味。「千葉と埼玉どっちが栄えてる?」みたいなの、みるたびに怒りを覚える。
  • 地域は単独で成立しない。地域は相互依存のネットワークとして理解すべきものです。東京にはいろんなものが売ってるけど、そのほぼすべてが東京で作られていない。東京の消費生活は、東京以外の無数の地域での生産に依存しており、反対に、無数の地域の産業生産は、東京での旺盛な消費需要に依存している。
  • 地域に優劣をつける奴は「地域」概念についてあまりにも無知である。
等質地域と機能地域
  • 地域には2つの見方があって、「農村」とか「ビル街」とか、視覚的に同質的な空間が広がっているものを地域と呼ぶ「等質地域uniform region」と、視覚的には等質的でなくても、ある機能の成立のために有機的に結合している一定程度の範囲の空間を呼ぶ「機能地域functional region」とがある。たとえば「通勤圏」とかは、ある種の経済機能を成立させる機能地域として理解できる。まあ他にも色々あんだけどさ
  • 地域っていうと、ほとんどの人は、空間を等質地域として見て、かつ、そのなかの、ごく一部の点しか見てない(たとえば多くの人にとって「渋谷」はすごく狭い空間範囲であろう)
優劣やばい
  • 機能地域的な見方ができたら、地域に優劣なんて決してつけられないはず。
  • つうか優劣やばくない?地域っていうのは、そこにいる人たちが作るものだぞ、すなわち地域に優劣をつけることは、人たちに優劣をつけることを意味する。ポリティカリーコレクトネスじゃん、いまSNS(?)とかだとポリテなんとかに準拠してないこと書くと怒られるからそういうのやめた方がいいよ。ポリなんとかはアカシックレコードに書いてあるよ。
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大学入試
  • ところで業界の人は知ってるんですけど、文科省のせいで大都市圏の大学は定員抑制がキツくなってて、入りにくくなってます、特に東京ね
  • それはすなわち、東京の大学の入試難度が一律で難しくなることを意味しますよね。
地方創生
  • そんな事態になってる理由の一つは東京一極集中の是正なんですけど、日本はもう一つ、人口減少という、実質的に解決不可能な難題を抱えています。でも日本政府はそれをどちらも机上では解決できる妙案を思いついた。
  • それは、都道府県別の合計特殊出生率をみると、巨大人口を抱える東京が飛び抜けて低くて、他方で人口の少ない地方圏では比較的高い、という事実を利用して(実際に地方都市の方が子育てはしやすい)、そんなら若い世代には地方に行ってもらえば、人口減少も東京一極集中も抑制できるだろっていう考えで、その一連の政策パッケージの名前が、地方創生です。
  • 都内の大学に入りにくくすれば別の場所に行かざるを得なくなるよね。
マンション高すぎ問題
  • ただし同時に日本政府はある程度の経済水準も維持したいので、東京には引き続き「優秀な人材」には流入してほしいと考えている
  • それはすなわち、東京に住める人間とそうでない人間とが今後どんどん分極化していくことを意味する。
  • マジこういう事態になると「努力して高い能力を発揮した人間がいい思いをするのは当然」って言い出す人間がソーシャルメディア(???)に出現してきて俺は頭を抱えてんだよそのレベルかよって
  • つうか新年度で都内に引っ越してきた人いると思うけど、ウケ狙いみたいなショボい部屋でも家賃高いじゃん、分譲マンションもウケ狙いみたいに高い。
  • 単に高いだけならいいけど、「このマンション作った人って家に住んだことないっしょ?」っていう感想しか出てこないマンションしかなくてクソ高いのはかなり笑える。以前文京区でマンション探したときマジそんな感じだった。みんな居住空間ではなく投機対象になってる。
  • このまえ修士の時に同期だった中国人に会ったら「君はとっとと23区内の駅から5分の古くないマンション買って家賃13万で貸し出せ」って繰り返し主張された。
  • 金の話やめろ。
  • つまり東京に住める人間と住めない人間との乖離が社会の様々な位相で進んでいるわけです。「一旗あげるために上京」なんて昭和の世界ですよ。令和では「一旗あがってない奴は上京不可能」です。
翔んで埼玉のリアリティ
  • まあマンションの件はおいといても、こうした東京一極集中と人口減少の抑制を目標とした、いかにもポストモダニティ(環境による人間制御)な居住地域選別の圧力は当面は多面的につづくので、それは経済格差の空間的再生産の装置化に他ならない。それって、東京の人間とそうでない人間との絶対的乖離が進む、翔んで埼玉の世界だよね
  • 翔んで埼玉では、東京以外で生まれた人間が東京に入るには「手形」が必要になる。では、これからの日本で、いやいまの日本で、東京に入るため(つまり例えば、都内で働いたりするため)の「手形」ってなんだろうね??????????(知るか)
クソ長くなってきたんで終わります
  • クソとか言わない方がいいと思う。
  • そういやあまりに自明だったんで書き忘れたけど、筆者は埼玉生まれ埼玉育ちです、映画は超よかったよ
  • いいたいのはさ、地誌的知識とか地域概念とか格差の空間的再生産とか、そういうのロクに知りもしないで、単に「東京で生まれた(あるいは、東京で生まれなかった)」という身体的事実だけを以って何がしかを判断しようとする昨今の趨勢に違和感を覚える
  • 既存の社会秩序が溶解する中で、人々は世界を認識する枠組みを失い、結果として自分の身体感覚(どう思ったか)や、身体的特質(どんな肉体をしてるか)、身体的事実(どこで生まれたかとか)、など、身体に結局依拠せざるを得ないというのはポストモダニティにおけるひとつの理にして隘路であろう。
  • ごめん全然関係ないけど「筋肉は裏切らない」ってかなりポストモダニティだよね、ふつうに裏切ると思いますが…

年収と自由

金はやばい。みんな金の話してる。

年収の話やめろ

齢30で私大教員として終身(?)雇用(?)され、ようやく名実ともに今後40年間(?)の社会人スタート、いきなり人並みの収入を得て困惑したのをよく覚えています。

その一方、出身研究室では国立大か弱小私大に決まる人が多くて、まともな私大に就職した人間はレアケースだったので、同窓の人々からひたすらに年収を聞かれる。いいか、マジ年収の話するのやめろ。

先日、PD続けてる先輩にしつこく聞かれたので、観念して「少なくとも我々の母校の国立大で助教やるよりはよっぽどもらってるはずです」って答えたら後日、その先輩はその国立大の助教の椅子に収まった。お前がしつこく聞いたからだぞ。そんときの飲み会の結論は、「業績重ねて有名私大に行くぞ!年収2000万だぞ!」だった。んなわけないだろ冷静になれ。顔出すのやめました。

大学を出てから金を無視した人生を送り7年(修士2年博士3年フリーター2年)、まともな額の金を得てようやく、金のやばみ見えてきた。

みんな金の話してる

インターネットみてても、最近みんな収入の話してる。周りの人がアラサーだからかなと思ったけど、大学生とかも同じな気がする。まあユーチューバー?(?)とかみてたらそうなるよな。あと大学生みんな留学の話してる。そんで日本を捨てる算段たててる。うまく行くといいですね。留学は日本が沈没するなかで経済的に食いっぱぐれないために、的なメリトクラシーの意識を感じてしまう。つまり収入の話に見えてしまう。見えてしまう自分に問題があるのかもしれない。自分の業界でも、仕事の前に「手当は出るの?」みたいな声ばっか出てきて不可解である。

別に他人にケチつけようというつもりではないですが、金のために働いている限り、どんだけ稼いでも金から自由になれないよなってつくづく思う

でもマジみんな収入の話してません????古い会社辞めてGAFA行ったら収入が増えたらしいぞガーファすげーみたいなさ、そんなん当たり前だろが、地球出て木星行ったらヘリウムがすごかった、みたいな話だぞ…………(そうなのか?????)、あとなんかこの記事、万が一にも、人間に読まれたら一定の怒られが生じる気がしてきた

なぜ金なのか

金を欲しがる理由は自分にだってわかる。リスク社会だからリスク軽減のために金を確保したいのだ。既存の社会秩序が溶解していくなかで我々は「確かなもの」を手にしたいのだ。

たぶん日本で「確かなもの」は、90年代は「愛」であり、2000年代は「夢」であり、2010年代は「私らしさ」であり、2020年代は「金」になる、そんなところなのだろう。そしてどれも確かなものではなかった。あとまた愛が流行ってきたよな…

金の性質

個人の収入の多寡は、個人の能力などではなく、もっと大きな構造によって決まる部分が大きい。ていうか運である。

基本的なこととして、金は、年収がいくら増えようが、足りないようになってる。金は無限に増やせるけど、金の価値は他者と比較可能なので、金は他人より多く持っていないと価値がないけど、自分より金を持ってる他人は無限に存在するので、金は常に不足する。自分がどんだけ金を持っていても、金は足りない。そんなことは、カルロスゴーンを見てればわかる。

あとみんな年収何千万円がどうのとか言ってるけど、年収5000万円と年収500万円では、生活の雰囲気はそれなりに違うだろうけど、たぶん本質的には生活変わんないですよね??だってどっちにしろ働くんでしょ?雰囲気が違うだけでしょ?自分の業界で言っても、地方弱小公立大に勤めるのも、青学に勤めんのも、経済的には大して変わんないでしょって感じ。日本の社会保障制度を考えても、利子だけで遊んで暮らせるようになって初めて本質的変化なんじゃないですか?すいません筆者あんま世間とかわかんいんで、、、、、、

結局、年収が今の10倍になったら、11倍の生活がしたくなるだろう。プロゲーマーの「ときど」さんが、テレビで「収入が増えても生活水準を上げるな」みたいな家訓を守ってるって言ってて、彼のお父様も実際そういう雰囲気で、すごい心に残ってる。

それはデカダンス

もしかしたらこの記事、金に執着する連中はおかしい、的な論旨だと思われてるかもしれんけど、そんなことはなくて、自分もまた、金の無意味さを分かっているのに、金の呪縛に囚われつつある恐怖を抱いているんですよね。何なんだこれは。

筆者は金を無視したい。幸いなことに、自分には「趣味イコール職業」という極めて有難い立場があるので、というかそれを目指したので、学生の頃は「金のことは置いといて好きなことをマイペースにやろう」という方法で、金の価値を脱構築する戦略をとってきた。

学生のときは、いや学生つっても28歳とかなんだけど、これで行けると思ってたけど、これは結局、フィクションとしての「個人の自由」の枠組みの中の話にすぎないのかもしれない。

そもそも今多くの人が考えてる「個人の自由」は、自由ではなくデカダンスに過ぎない。放っておいてくれ、俺は好きにさせてもらうという…… いわば「自分の自由」であろう。だから、金の価値から背を向けて研究に勤しむのも、同様に、デカダンスにすぎない。そしてデカダンスは必ず破綻する。90年代前半までの村上春樹作品が好きなんだけど、それはその辺のことが扱われてるからです。すいませんどうでもいいですね。全部どうでもいいのでは?

金と自由の脱構築

たぶん金だけを脱構築するのではなくて、同時に「自由」を脱構築する必要がある。

何となく、(個人の)自由というのは献身のことであろうと思う。身を捧げることが自由。「何に身を捧げるか」の自由ではない。身を捧げることによって解放されることが自由であり、どんだけ金を持っていても、何かに身を捧げないと自由は得られない。そんな印象を受ける。

なんかゴチャゴチャ書いてんな、つまり自分のためではなくて、他者のために金を使う的などうのこうのみたいなすいません終わりますお前こういう感じで記事終わんのよくないぞすいませんとにかく金に困惑してる先日は研究会の懇親会二次会で同じような私大にいる人に「週に数回昼ごろダラダラ出勤したらなんか賞与とかいう金額書かれた紙があってそんで14時とかにダラダラ帰るじゃないですかなんなんだこの生活はなんなんだその金は何に対する対価なんだって意味不明になって意味不明になりませんかなるやろがオラってウーロン茶がぶ飲みした終わりますとにかく金のために働く状態にはなんないようにしよマジ決意つうか違うんだよ俺はこのブログで飛んで埼玉を語りたいんだ何でこんな事書いてんだ?????????(?)

自由と監視の両義性と○○性について

 ※新作の原稿がマジ遅々として進まなくて,じゃあ本来どんなこと書くつもりだったのかを,ブログに書くつもりでバーって書けば補助輪になって原稿やりやすくなるよなってなって,細かいことは無視して,さわりの部分だけバーって書いてみることにした.

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 監視社会化がすすんでいると言われている.

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 Webサイトを開けば無数のスクリプトが我々のPCのデータにアクセスを試み,収集したデータは我々の行動履歴を監視し,消費者プロファイリングに役立てる.シヴァ・ヴァイディアナサンは,我々はもはやGoogleを使わずには生活できない状況下にあり,Googleに個人情報を明け渡さずには生きていけないことを確認した上で,でもGoogleのサービスは個人情報の提供の対価として得られる「取引」であるというようなありがちな見解に対して,個人情報やプライバシーは,商品のように切り離して取引できるようなものではないと一蹴している.その通りであろう.ダニエル・ソロヴのように,プライバシー概念そのものを再考しようとする者もいる.忘れられる権利なんてのもあったね.

 スノーデンのように,巨大ネット企業による個人情報利用の背後には国家の思惑が存在するという見解も根強い.根強いどころではないかもしれない.昨年は米中貿易戦争を文脈の一つとしてファーウェイの幹部が逮捕されたが,これは同社が米国民の個人情報を収集し中国政府当局に提供しているという嫌疑によるものであった.中国では,従前のコネ社会や裏金社会からの反動のなかで,アリババによる,個人の信用情報を可視化するサービスや,国家による国民の点数評価が広く受け入れられ始めている.バルト三国も国をあげたICT大国地域として知られるが,それは監視社会化と表裏一体である(バルト三国でそれが受け入れられているのは,ソ連からの独立からまもないベンチャー国家であり,それゆえ国家機構への国民の信用が高いことによるとされる).監視社会化は国際問題という側面も持ちはじめている.

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 SNSに書き込んだ内容(あるいは,書き込まなかった内容)はすべて他者に監視され,likeやRTの数によって評価される.SNSアカウントを持っていなくても,われわれの日常行動はスマートフォンを持った他者によって監視されている.我々のどの行動が,いつ,だれによって,どのように監視され,どのようにSNSに書き込まれるのか,自分では予想できない.バイト先でモラルに欠けた行動をした時だけでなく,ごく常識的な行動をしていたとしても,それを「モラルに欠けた行動」としてSNSに書き込まれる可能性を我々は否定できない.そのSNSの書き込みもまた,それが事実なのか作り話なのか,フェイク動画なのか,あるいは「likeをするに足るpostなのか(そのpostをlikeをしたと他人に知られても構わないのか)」ということが監視されて,つねに評価の目にさらされている.

 例えば渋谷に出かけようとする.そのとき我々はネットで「渋谷 カフェ おすすめ」を検索する.画面に映る全てのカフェは,「口コミ」や☆の数,どこかのライターの「レビュー」によって監視されている.しかし,その口コミやレビューもまた,それが信用に足るものなのか,閲覧者から監視されている.Amazonで物を買うのも同様である.さらには,こうした監視が,イーライ・パリサーのいう「フィルターバブル」つまり自分が見たいものしか見られない情報環境と表裏一体であるという指摘もある.

 「SNS映え」「インスタ映え」という概念は,それが称揚されようが無価値と見られようが,いかに我々の生きる社会が相互監視社会であるかを象徴している.

 鈴木謙介は,こうした状態におかれた我々の社会的心理を「見て欲しいように見てもらっているかどうか不安」と端的に表現した.「見てもらっているか不安」「見られてしまっていないか不安」という問題は過去のものであり,「見られている」ことはすでに前提である.ここでは「見られ方」のコントロール性(あるいは,その不可能性)が問題なのである.

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 つまりネット社会における監視社会化は,二重の監視社会化として整理できる. ①巨大ネット企業(あるいはその背後にある国家)による,プロファイリングを目的とした市民=消費者の監視の拡大(管理社会化)と,②ICTを手にした市民が,①のネットサービスを用いることによる,市民の市民に対する監視の拡大(社会的相互監視)である.

 たぶん①は,グローバル化や,それによる1648年以来のウェストファリア体制と国民国家の瓦解(国家が国民のものではなくなるという恐怖/期待)と,それへの抵抗であり,②はボードリヤールのいう大衆消費社会やハイパー・リアリズムの文脈にあると位置づけられるだろう.でもたぶん明確には分けられなくて,重複がある.

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 いずれにせよ,こうした監視社会化を悪として,個人情報を明け渡すな,自由な個人でいるべきだ,というような抵抗運動は,一般言説においてかなり多く見られる.ローレンス・レッシグアーキテクチャ論は,それを必然とするような考え方と言えるのかもしれない.GAFAM(google, apple, facebook, amazon, microsoft)を一切使わずに生活するという無謀な企画をネットメディアで見たが,そんなことが可能なのはリチャード・ストールマンくらいだろう.あとたぶん企画者はAWSとかAzureとか知らない.AkamaiCISCOはどうなるんだろう.ちなみにストールマンは携帯電話のことを Portable surveillance and tracking device って読んでて,お前ら電源を切れって要求してくるなど,さすが気合の入り方が違う.

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 なお,おそらく,こうした監視社会批判の一つのルーツは,池田純一が指摘したように,インターネットの技術を発展させてきた技術者たちの文化的ルーツが,本人たちが気づいているか否かは別として,ヒッピー文化にあるからであろう.インターネット前夜のハッカーカルチャー全盛期において,コンピューターはヒッピー文化におけるドラッグのように,自分の身体を既存の社会秩序から切り離すと同時に,身体を拡張させるものとして位置づけられてきた(余談ながら,こうした池田の観点を知ったのは大学生の頃だったけれど,今思えば,我々の社会の外部に「出現」したかのように扱われがちなインターネットを,ヒッピー文化という,既存のアメリカ社会の変化の延長線上に位置づける視点は,極めて斬新かつ説得力があると思う).

 つまりインターネット社会は,何者にも縛られてはならない文化のもとで成立している.だから監視が手厳しく批判される.アイザイア・バーリンによる「自由」概念の区別,「積極的自由」と「消極的自由」は大変有名だけど,これを敷衍するなら,ネット社会は消極的自由が最重要視される価値観のもとで技術的に作られてきたが,その技術は結果的に消極的自由を脅かしている,と言えるのかもしれない.

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 (身体を拡張するはずのインターネットが,「身体の消失」という電子的監視を生み出したことは皮肉であろう.監視とは,近代化にともなう「身体の消失」をメカニズムやテクノロジーによって埋め合わそうとする社会的実践であるが,「身体の消失」を埋め合わす行為は再帰的に身体を消失させる.電子的監視のもとで監視されるのは我々の身体の一部(顔や網膜や指紋やDNA)や,身体行為の一部(キーボードで入力した記号や音声や動作)であり,監視は身体の断片を監視する.本来の自明な「わたし自身」たる身体の総体は,実は監視の対象として必要とされていないし,監視することができない.ではしかし,「わたし自身」たる身体の総体を監視できる主体は,この世に存在するのだろうか?じつは監視社会論の出口は,その主体を「神」にもとめるところにあるとも考えられている.今日の監視社会論は,あまり知られていないが,宗教社会学者が骨子を作ったのである(デヴィッド・ライアン).Googleを神として扱う論考も,一般メディアでたまに見るけど,それは神をメタファーとして扱っているのであって,そうではなくて,純粋な神そのものを監視の外部に置く考え方がありうる,らしい,なんとなくわかる気もするが…)

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 さて,しかしながら,世間一般で見られる,いや学術界においてもしばしば見られる監視社会批判論は,説得力に欠けざるを得ないというのが趨勢である.筆者もその立場である.その理由は,第一には,ストールマンでもない限り,ほとんどの人にとって監視を避けて生きることはすでに不可能だからである.したがって,監視社会批判論は,理念的には正しいとしても,あるいは思考実験としては役立つとしても,現実的にはあまり機能しないと言われざるを得ない(監視社会が法学者と社会学者を中心に論じられてきたことによる必然的死角なのかもしれない).

 第二には,便利だからである.Google検索やSNSをはじめ,監視の対価として得られるサービスは便利なのである.単に必要であること以上に,我々の生活を便利で豊かにしてくれている.その功利の前で,単純な監視社会批判は空転せざるを得ない.食べログを見ずに飲食店に行くのはもはや好事家の蛮勇である.食べログのクチコミや評価は操作されているかもしれないが,我々はそれが操作されていることを自明視して役立てている.

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 例えばSNSのユーザーは確かに監視されているが,監視され他者に評価をされ,likeやRTがなされたりなされなかったりすることは,自身の行為の妥当性を測るための,ものさしとして機能する.ジグムント・バウマンは今日の社会状況を「リキッド・モダニティ」と形容する.つまり既存の秩序が溶解し,社会生活における戦略や選択の妥当性を決定する「正解の枠組み」がだんだん消えていき,かつ新たな枠組みというオルタナティブも見えてこない混迷した今日において,監視され,他者評価のまなざしにさらされることは,我々が「自由」に「自立」して「自分の価値観」で生きようとするうえで,有用なツールとなるのである.

 今の時代は,もはや「おしゃれなごはん」を食べようとしたときに「イタ飯」に行けばいいという最適解が存在する時代ではないのである.どこに行ってもいいのである.松屋でもいい.個人が自由に決めていい.就職先もそうである.大企業に行けば幸せな時代ではないからリクナビで自由に会社を選ぶ.しかし哲学や社会学で何度も指摘されてきたように,「自律的に自由に意思決定できる個人」なる存在はフィクションに過ぎないのである.我々が「自由」に選択するためには,補助線となる枠組みがあったほうが楽なのである(エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』的な).そしてソーシャルメディアを介した他者評価は,うまくつかえば,補助線として極めて有効に機能する.

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 そもそも,なぜ監視社会批判論は空転してしまうのか?

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 監視社会論の第一人者であるデヴィッド・ライアンは次のように指摘している.

 監視論においてしばしば引用されるのが,ミシェル・フーコーパノプティコンである.フーコーパノプティコンを,近代を成立させた権力装置の理解のメタファーとして用いた.しかし,フーコーパノプティコンは今日の監視社会を理解するメタファーとしてもはや十分に機能していない.にも関わらず,監視を論じる者たちがフーコーのフォロワーでしかないことが,監視社会批判の空転の理論的原因である.

 どういうことか.論点は2つである.第一に,フーコーパノプティコンには元ネタがあって,ジェレミーベンサムパノプティコンであることが知られている.パノプティコンでは,監視棟に立つ監視者は囚人を見ることができるが,囚人は監視者を見ることができない.だから監視者はたとえ監視していなくても,囚人は被監視者として振る舞わざるを得ない.このように監視を身体化させる権力の作用が近代の有り様であるとフーコーは説明した.ここでパノプティコンは,監視する/される場として扱われる.しかしながらベンサムパノプティコンは同様の建築構造を持つものの,監視という行為には,「配慮」という次元があるとされた.すなわち監視されているということは,見守られているということでもある.囚人が脱走という悪事を働かないように監視しているということは,同時に,脱走という悪事を働いて「しまわない」ように,「囚人のために見守っている」ということも意味するとベンサムは考えていた.

 登下校中の小学生にGPSトラッカーをもたせるようなものである.GPS端末を持たされた小学生は,親から監視されているわけであるが,それは同時に,見守りという「配慮」でもあるのである.

 ライアンは,「監視」と「配慮」は本来,表裏一体であると説いている.そしてフーコーパノプティコンでは,近代化や権力作用を説明するために,配慮の次元が捨象され,監視の次元のみが結果的に強調されてしまったとする.それゆえフーコーの枠組みを用いる限り,監視は「個人の自由を束縛する悪」としてしか理解できないのである.無理のある監視社会批判論は,フーコーの枠組みで今日のネット社会の電子的監視を理解しようとしてしまっているがゆえのものである.

 ライアンのこの考え方は発表当時あまり理解されなかったようだが,いち早くこの本質を見抜いたのは,失礼ながら意外なことに,東浩紀だったそうである.東は,2000年代前半の当時からみて,将来のネット社会は本質的に相互監視社会でしかありえないのかもしれないと述べていて,正鵠である.

 第二に,ライアンとともにジグムント・バウマンも述べるように,フーコーパノプティコンの前提についてである.フーコーパノプティコンでは,監視する者とされる者との関係が明確であることを全体としていた.つまり監視棟に立つ監視者は権力者であり,監視される囚人は囚人でしかありえない.囚人が監視者を逆に監視するということはなかった.そして監視者は,強い力を持つ少数の主体が,つねに囚人のそばにいる,そういう存在であった.ジョージ・オーウェル1984のビッグ・ブラザーもそういう存在だった.でも,今日の監視社会では,この前提は明らかに成立していない.

 ソーシャルメディアの例でわかるように,ユーザーがユーザーを監視しているのが今日の監視社会であって,いわば囚人が囚人を監視している.また政治家や著名人の「炎上」が示しているように,囚人が権力者も監視している.

 ソーシャルメディアだけでなはく,巨大ネット企業によるユーザーの監視も同様である.巨大ネット企業による監視は,確かに権力者が囚人を監視していると言えるが,我々は日々,複数の巨大ネット企業のサービスを利用している.「強い力を持つ少数の主体による監視」という前提は成立しない.また我々はGoogleに監視されているとしても,ではネット上で監視しているその「Google」とは,どこにいるのだろうか?シリコンバレーにいる人々が直接我々を監視しているわけでもない.日本支社でもない.というか,どこの人間が実際に監視しているのか我々には分からないし,たぶんGoogleの人にもそれは分からない.もっといえば,たぶん監視しているのは人間ではなくアルゴリズムであり,監視はしているのだが,実際に監視している主体は存在しない(これをもって,「監視していなくても監視が機能する」というフーコーパノプティコン論が適用できると考える向きもあるようだが,アルゴリズムによる監視では,実際に監視は行われているのであって,その意味でもやはり異なっている).

 筆者は「BIG DATA IS WATCHING YOU」と書かれたTシャツを持っているが,監視者としてのビッグデータは,フーコーパノプティコン的存在であるビッグブラザーとは本質的に異なるのである.なので「そうじゃないんだよな〜」って思いながら着てる.

 

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 さらに,ライアンの監視社会論のユニークな点は,社会それ自体が監視によって成立しているという考え方である.

 我々が人間同士の社会的に関わり合って社会を成立しているわけだけど,社会を成立させるためには,人間同士の信頼が必要であり,信頼を醸成するためには監視が必要であり,相手が信頼に値する存在なのか,どの程度信頼できるのか,信頼を裏切るような行為をしていないのか,監視することになるというのである.そして,テクノロジーが存在しない前近代社会では,こうした監視は身体によって,つまりFace to Faceのコミュニケーションによって行われていたが,近代化とテクノロジーの発達によって,社会は身体を介在しなくなった.つまり電信,電話,テレビ,ネットというように,遠隔でのコミュニケーションによって社会が成立するようになった.すると身体を介した監視が行えないため,信頼が成立せず,社会が機能しない.それを埋め合わせるために,テクノロジーによる電子的監視が広がったのであると,ライアンは整理している.非常に整合性の取れた監視の位置づけだと評価したい.

 ここでは,日本の代表的なライアン研究者である野尻洋平がいうように,「監視をコミュニケーションの地平において捉えている」のである,地平ってよくわかんない言い回しだけど,つまり監視というのは一種のコミュニケーションなのであって,コミュニケーションというのは人間が本来的にずっと行ってきた社会成立の基本要素なんだよっていうことである.

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 つまり監視されることによって得られる自由があり,自由を得る対価として監視が存在する.

 ネット社会化によって我々の選択の自由は格段に広がったが,その自由を行使するためには,必然的に二重の監視を是認せざるを得ない.逆に言えば,監視されることによって,選択の自由は格段に広がる.ライアンは監視は配慮と表裏一体であると説くけれども,筆者は,自由と監視が表裏一体なのだと思う.監視を理解することは,我々がどれほど自由であるのかを理解することを意味する.

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(個人が個人として自由に伸び伸びと生きられる社会にすべき,もっと個人の自由を尊重すべき,というような意見が,ここ数年,ネット上で目立つようになってきたと思う.筆者もそう考えていた.けれども,では個人の自由って何?個人が自由であるってどういう状態? そういう問いはあまり見られないように思う.現在の筆者は,個人の自由なるものがこの世に存在するとは信じきれない.自分の頭で考えて行動する,自律的で自由な意思決定を行う個人というのは,歴史的時空としての近代の成立要件であるが,大げさに言えばナチスや翼賛体制のように,我々は自由な意思決定によって不自由を獲得した(大政翼賛会治安維持法政党政治が抜群に機能する中で成立した).大屋雄祐が言うように,自律的で自由な意思決定を行う個人なるものは,フィクションに過ぎないのであって,しかしそのフィクションは現状では信じるに足るフィクションであると評価されているから,個人が尊重される社会がとりあえず存在しているのにすぎない.個人の自由を理解するためには,フィクションとしての個人の自由が「どの程度フィクションなのか」を理解すべきだと思う.つまり監視を同定した上で,人間の選択行為から監視を引き算することで自由が理解される.自由とは監視との差分でしか存在し得ないと思う.過度で純朴な個人の自由信仰には危険な雰囲気を感じる.監視を引き受けない自由は,自由ではなくデカダンスというべきであろう.)

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 だから考えないといけないのは,表裏一体である監視と自由のバランスである.

 確かに強硬な監視社会批判には説得力がない.しかし,監視と配慮(自由)が表裏一体であると言っても,ではそうであるから巨大ネット企業のユーザー監視や,ユーザー間の相互監視を無批判に我々は受け入れるべきである,という考え方にも組みするべきではない.我々が考えないといけないのは,監視がフーコーの言うような固定的なものではなくなって,監視が流動化し不可視化しているとしたうえで,ではその結果として結局だれがどう監視しているのか,その監視構造そのものを,社会の諸位相において,監視に関わる人々がどのように評価しているのか,という具体論であろう.

 ライアンにもバウマンにも欠けているのは,監視の○○性という,社会学にも法学にも本質的に欠けていて,かつ人間の存在においてもっと基本的な視点である.監視の○○性を論じることによって,流動化する監視を理解し,結果として,様々な○○の中で生きる我々がいかに自由であるのか,ないのか,その蓋然性を把握することになるだろう.○○に何が入るのかは秘密です.日々こんなこと考えて書いてるだけでお給料もらえるなんてつくづくすごい状態だな……

「移動」と現代アート

 現代は「移動」の時代です.

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 社会学者のジョン・アーリは,「移動」という視点から現代社会を論じました.彼は,グローバル化,移民社会化,国際観光の増加,移民問題の拡大,国際テロ組織の肥大化といった現代社会の諸事象を,「移動」という側面から鮮やかに統合し説明した,ポストモダン社会学の巨星です.

www.mori.art.museum
 筆者は本展覧会において,アーリの「移動」を鑑賞の補助線として想起させられました.本展は,私たちが,いかに「移動の時代」にいるのかが感じられる機会であったと思います.

モビリティーズ――移動の社会学

モビリティーズ――移動の社会学

 

 

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 アイ・ウェイウェイの「オデッセイ」は,筆者にとって本展の白眉でした.壁面2面にわたる巨大な本作では,難民の「移動」の様子が描かれます.

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作家名/作品名:アイ・ウェイウェイ《オデッセイ》


 また,目玉作品と目されるオノ・ヨーコの「色を加えるペインティング(難民船)」は,観客にクレヨンで「平和へのメッセージ」を書かせる形をとっていますが,写真のようにその核は,「難民船」という「移動」の象徴です.そして「平和へのメッセージ」を書き加える鑑賞者もまた,森タワーのこの場所に来訪し,そして去っていく「移動者」です.

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作家名/作品名:オノ・ヨーコ《色を加えるペインティング(難民船)》

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 本展のキーワードは「カタストロフ」です.本展では多くの作品において,災害や戦争が,カタストロフの具象としてモチーフ化されました.
 災害や戦争は,人々の生活する「地域」において発現します.人々は,自身が生活する地域がカタストロフの舞台になると,難民や移民,避難民といった「移動する存在」になるのです.カタストロフは,人々がいない場所ではなく,いる場所で生じたからカタストロフなのであり,だから,カタストロフには人々の「移動」が付帯するのだと理解できます.

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 本展において,そうした「移動者」をたちをカタストロフから救う,救いうるとされるのは,展覧会名にある「美術のちから」なのでしょう.そしてその「ちから」を行使するのが,アーティストです.ではアーティストとは何でしょうか.
 アーティストのプロフィールを見ると,例えば先のアイ・ウェイウェイは北京生まれ,ベルリン在住,オノ・ヨーコは知られているように東京生まれ,ニューヨーク在住です.こうした出身地と現住地が一致しない例は,アーティストという職業者においては数多く見られるものでしょう.本展では同様の例が少なからず見られます.
 異なる例としては,世界のマネーフロー(カネの「移動」)がもたらしたアイスランド金融危機や,ドバイのフィリピン人メイド(労働力の「移動」)を取り上げたアイザック・ジュリアンは,ロンドン生まれ,ロンドン在住ですが,ロンドンは世界のカネと労働力と観光客の「移動」の中心地であり,彼はこうしたロンドンの「移動性」という地域性のもとにあるアーティストだといえるでしょう.

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作家名/作品名:アイザック・ジュリアン《プレイタイム》(映像の一部)

 またハレド・ホウラニパレスチナ出身・在住)の「パレスチナピカソ」のように,パレスチナという異空間にピカソの作品を「移動」させる,という手段も見られました.ピカソというアーティストが仮想的に「移動」しているのです.日本の様々なアーティストが福島の震災復興に関与するというプロジェクトもありましたが,これも福島への「移動」の例でしょう.

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作家名/作品名:ハルド・オウラン《パレスチナピカソ》(映像の一部)

 

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作家名/作品名:高橋雅子(ARTS for HOPE)《アートで何ができるかではなく、アートで何をするかである》※筆者注:写真の部分が作品に含まれるのかどうかわかりません.

 さらにいえば本展そのものが,鑑賞者に対して,「美術のちから」に覚醒し,その「ちから」をアーティストとして(戦争や災害だけでなく個人の精神的な意味にもおける)カタストロフに行使することを大いに期待しています.例えば先のオノ・ヨーコの,鑑賞者にメッセージを書き加えさせる作品は,「美術のちから」の行使を強制させる装置であると言えるでしょう.
 つまり,アーティストの側も「移動者」なのです.移動者が移動者を移動によって救おうとしている枠組みが,本展のそこかしこで確認することができます.「移動」によって現代社会が成立している,成立せざるを得ない「現実」に,我々はまざまざと直面することができます.

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 しかしながら,ここでもう一つの「現実」に直面します.それは「移動」できない人々もまた存在するということです.ではその人々はカタストロフの後,どうなるのでしょうか.
 難民も移民も,その多くは送出国での比較的上層階級である(「移動できる者」から移動する)ことがよく知られています.つまりカタストロフの現場から「移動」できるのは一部の人々に過ぎません.残された人々は,移動者であるアーティストや芸術作品によってカタストロフから救われる,手を貸される受動的な存在でしかないのでしょうか.
 こうした状況のなかでアーティストは,民俗学者折口信夫がいう「マレビト」のようです.アーティストはマレビト,つまり外部からの異質な来訪者としてカタストロフの舞台にやってきて,一方,その渦中にいる「移動できない人々」はマレビトを歓迎し,マレビトはカタストロフの現実を修正し(救い),去っていく.アーティストはマレビトなのでしょうか.

 

 

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 「移動できない人々」はどうなるのでしょうか.ヘルムット・スタラーツの「アイソレーター」は,「移動できない人々」が経験するカタストロフの閉塞性を描いているようにも見えます.

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作家名/作品名:ヘルムット・スタラーツ《アイソレーター》

 

 こうしたなかで希望を感じられたのが,カテジナ・シェダー(チェコ生まれ,プラハ在住)の「どうでもいいことだ」です.

 

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作家名/作品名:カテジナ・シェダー《どうでもいいことだ》

 キャプションの一部を引用します.

 本作はシェダーが自身の祖母と行ったプロジェクトの記録です.夫に先立たれ仕事を引退し,すべてを「どうでもいい」と放棄してしまった祖母が,商品管理マネージャーとして30年以上も勤めた金物店の品物を鮮明に記憶していることに,作家は気づきました.そこで,商品をひとつずつ名前やサイズとともに紙に描くことを祖母に提案したのです.ドローイングの総数は500枚以上となり,祖母は再び世の中への興味を取り戻し「どうでもいい」という言葉を口にしなくなったと作家はいいます.

 

 チェコ出身の作家のもとで,チェコで暮らす彼女(?)の肉親が,「移動」せずに30年間勤めた金物店の商品を描いていく過程に,再生が見出されています.つまりここでカタストロフへの救いは,「移動できないこと」「移動しないこと」それ自体によって生み出されているのです.
 また「30年間勤めた金物店」という点には,チェコという,グローバルにヒト・モノ・カネが「移動」する現代金融資本主義から取り残された(移動できなかった)旧共産圏地域,として地理的に文脈づけることが可能でしょう.

 本作では,「移動できないこと」「移動しないこと」の特異性,特別性に光が見出される視点が,本作では感じられました.社会がグローバル化しているとされ,グローバルに活躍できるとされる人々(英語話者と同一化される)がもてはやされる意味不明な現代の社会状況において,移動できないことの特別性がもつ光は,本展において最も輝いていたように思えました.

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 言うまでもなく,本展のすべてが「移動」から読み解けるわけではありません.展覧会というテキストの一つの読み方にすぎません.しかしながら本展の鑑賞体験は,「絶え間ない移動の繰り返し」「移動できるもの/できないもの」という現代社会の構造やキーワードを理解する契機になり得るだろうと思われます.

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 以下は余談です.

 

 自分がセンター試験を受けた13年後に,こんどは監督者側になって椅子に座りながら「芸術作品化する社会」という考え方をまとめました.しかしまとまっていません.

  今後別稿で少しずつ言語化していきますが,現代社会では,芸術が社会を変えるのでも,芸術が社会を反映しているのでもなく,社会そのものが芸術作品になりつつあり,我々は社会という芸術作品の作者/実践者/鑑賞者になりつつあるのです.

 今後,よりよい社会づくりのためには「私たちの生きる社会そのものが芸術作品になっている」という考え方が必要です.芸術作品も,芸術という営為も,社会を変えたりはしません.

 だから,私たちが社会を論ずるとき,社会を芸術作品として論ずるべきであり,芸術作品を論ずるときは,芸術作品を社会として論ずるべきなのです.これは芸術称賛論ではなく,芸術批判論です.

 

※本稿掲載の作品画像は,「クリエイティブ・コモンズ表示 - 非営利 - 改変禁止 4.0 国際」ライセンスでライセンスされています。

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