日本は遅れてる

「日本は諸外国に比べて遅れている」と昨今よく耳目にする気がします.日本で生きている実感レベルでも,たしかに日本は「遅れている」とそれなりに思うのですが,ずっと違和感がありました.日本は「EU」とか「アメリカ」とか「カナダ」とか「中国」といった,特定の海外の国や地域から遅れている,という理解は妥当なんだろうかという違和感です.これは空間の水平的な差異に着目する枠組みで,日本は水平的に遅れているという理解です.しかしあまり知られていませんが,空間には垂直的な差異もあります.

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いま世界で起きている大きな動きは,グローバルな空間とローカルな空間との垂直的な乖離です.

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ニクソン・ショックによる変動為替相場制の成立は冷戦崩壊に先んじて金融革命を引き起こし,国家間,地域間の相互依存的で不安定なグローバル金融ネットワークが形成され,金融の情報化とあいまって,カネが世界中を飛び回るマネーフローの世界が作られました.それを前提に冷戦崩壊を背景とした資本主義市場の拡大,多国籍企業の勃興,航空交通ネットワークの廉価化と拡充が進み,こうした動きが「グローバリゼーション」「経済のグローバル化」として理解されています.

しかしグローバリゼーションとか経済のグローバル化というと,世界の様々な国や地域が相互に頻繁・密接に結びつく,というイメージで語られがちですが,今起きているのはそういうことではありません.その相互結合の結果として,仮想的な「グローバル空間」が形成されるというイメージです.すなわち,グローバルなマネーフローや人の動きや企業活動が、グローバル空間をただ飛び回るだけで,それらの諸資源がローカル空間,すなわち現実の社会経済行動が行われる現実空間と結びついていかない,その結果として,地球上のほとんどのローカル空間が置き去りにされて「遅れて」いっているという状況です.スーパーグローバリゼーションとかハイパーグローバリゼーションって呼んでいる人もいます.

情報社会を論じる上で不可避的な存在であるスペインの社会学者マニュエル・カステルは,こうしたグローバル空間を、「フローの空間space of flows」と呼びました.フローの空間にあるのはまさにフローでしかない,カネもヒトも,フローでしかないから.現実のローカル空間に結びついていかないということです.とてもいいネーミングですね.

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つまり日本が諸外国に遅れているのではなく,たぶん中国もふくめどの国も,グローバル空間に対して遅れていると見られます.したがって,仮に「滅びゆく日本」を見捨てて海外に活路を見出そうとしても,現実に我々が生活を営むのは,仮想的なグローバル空間ではなく現実のローカル空間ですから,結局は多かれ少なかれ、「滅びゆくどこか」のなかで生きざるを得ません.ローカル空間の衰退には地域差すなわち時間差があるので,その時々において自分に都合のよいローカル空間を選んで生きる,ということもありえます.しかし現実としてローカル空間や社会制度はそのような生活を前提に設計されていないから,それはそれで生きにくそうに見えます.仮にそうした「フローとしての生活」をしたとしても,フローはフローなので,ローカル空間と再結合して「ふつうの生活」を再構築することもまたむずかしいだろうと思われます.

結局,われわれの目から見て「進展」しているように見える地域や社会は,どこかのローカル空間の中のスポット,点にすぎません.グローバル空間に諸資源を吸い上げられて衰退していくローカル空間のなかに,ごくわずかの点だけが進展しているように見える,しかし,結局その点の資源も「フロー」にすぎないので,いつまでその進展が続くのかは未知数であると言えます.一時的なバブルなのではなくて,構造的にそうだということです.

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今日さまざまな分野で問題とされているのは,このように乖離したグローバル空間はいかにローカル空間と再結合されうるのか?ということです.かならずしもフローの空間としてのグローバル空間がローカル空間を一方的に変質させているだけではなく,ローカル空間からグローバル空間への「異議申し立てprotest」やグローバル空間のローカル空間への「埋め込みembeddedness」もさまざまな領域で認められはします.オランダの経済学の大家 Peter Nijkamp は,Globalization と Localization は一つの現象の両側面だと看破しています.だから Glocalization という表現も見られますね.グローバル空間が強まっているからこそ,グローバル空間がフローの空間になっているからこそ,じつはローカル空間の意義が重要視されています.

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やや話が変わりますが,「24時間働いて会社のために尽くす」という価値観に,われわれの世代から疑問が出てきています.われわれの世代にとってその価値観は「遅れている」のであり,「金もそれなりに大切だけど,会社に尽くしても会社はなくなるし,自分の力で働いて,精神的にも豊かにゆとりのある生活をしたい」みたいな価値観が「進んでいる」のではないかと思われます.しかしいずれの価値観も,おそらく自分や自分の大切な人間を守るための規範として機能していた,しているのだと思われます.「遅れている」価値観は,かつて「進んでいる」のであったし,いずれも目指すところは同じだったのではないでしょうか.たぶん会社に尽くす価値観は,1960年代前後の時点では「農村社会ではなく企業社会に属する方が効率がいい」という意味でスマートだったのではないだろうかと感じられます.両者の価値観に優劣はないと見えます.にも関わらず会社に尽くす価値観が「遅れて」いったのは,その価値観が良くも悪くも戦中の地域共同体的制度を前提に………すみません話がまとまんないんで話飛ばします

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結局,個人としてどう生きうるんでしょうか.重要なのはローカル空間に根ざして生きられるか,ということだと思います.グローバル空間を目指すこと,グローバル人材になること,国や地域に縛れずに生きるといった「現代的」な価値観は,グローバル空間が仮想的なフローの空間でしかないことをふまえると,確信は持てないけれど,虚構なように見えてきます.

逆説的ですが,これは日本で生まれて日本で死ね,海外に出ていくのは無駄,という話ではありません.どこに出ていったっていいし日本にいたって,日本のどこにいたっていいけれども,どこかの場所で,何らかの方法でローカル空間に根ざすことが求められるのではないか,という考え方です.

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「日本ダメだ論」みたいなものが急速に浮上してきたように見えていました.日本は諸外国に遅れている,グローバルスタンダードに対応できていない……,そういう側面もかなりの程度あるとは思いますが,極端な「日本ダメだ論」は「世界から褒められる日本」のような「日本スゴイ論」と表裏一体であるように,なんとなく見えています.つまり「日本というローカル空間に特有の特性を冷静に見極めていない」という,一枚のコインの表裏なのではないか.母国に対して批判的になること自体は重要だけれども,いま散見される批判は「批判(人間の知識や思想行為などについて,その意味内容の成立する基礎を把握することにより,その起源妥当性限界などを明らかにすること…kritik)」なんだろうか?極端な母国悲観論は最終的に実現可能性の薄い極端な解決策を求めようとすることは,歴史も証明しています.

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空間を,水平的にではなく,垂直的に分けてみようという,一つの視点でした.