味覇で作る香妃園リスペクト中華カレーの話題
■話題
俺の孤独のグルメは自宅でひとりで作ってひとりで食べるやつだぜ(ღˇ◡ˇ*)
— 快適な生活 (@Kaiteki) 2014, 8月 27
六本木にある香妃園っていう中華料理店,超高額なフカヒレ姿煮とか展開してて迫力あるんだけど,有名な鶏そばとか謎のポークカレーとかは1000円くらいで食べれられて,お得.ググれば無限に出てくる.
香妃園カレーはすごいシンプルなんだけど独特な感じで,やさしい味で,ふしぎなおいしさだった.下味つけた豚肉と,シャッキリした玉ねぎ,中華スープ,ただのカレー粉っていう構成っぽかった.おいしかったので自宅で3回くらい再現した.下記になかでも突出して雑につくったときのやつ載せた.
■展開
玉ねぎ,半分を大きめに切って雑に炒めた.重要なのはアメ色に炒めるみたいな意味不明なことしないこと.あんま炒めない方が食感が残っておいしい.たくさん炒めてメイラード反応にもってって味だしても味覇の味で消えるのでマジ意味ないと思う.
玉ねぎの上から水400ccくらい入れたやつに,冷凍庫から取り出して5秒の豚肉を投入した様子.これ完全に非効率で,常識ある感じに解凍してから入れたほうがいいし,ふつうは玉ねぎと一緒に炒めておくほうがいいと思う.下味はつけたほうがおいしい感じ.下味つけるなら,豚肉こま切れ250グラムをジップロックに入れて,しょうゆ・酒それぞれ大さじ1,油小さじ1も入れて揉みしだく.重要なのは豚肉のこま切れを買うことで,カレー用豚肉みたいなの使ってはいけない(個人的には,ふつうの欧風カレーもこま切れ肉で作ったほうが断然おいしいっぽい).
しょうがすりおろしまくった.しょうが好きなので大量にいれた.味覇でしょうがの味だいたい消えた.無意味.あと水は適宜追加した方がいいと思う.単純にほしいルーの量だけ水を入れておけばOK
肉に火が通ったので味覇いれた.量は適当だけど,せっかく中華カレーにするので,味見してふつうにしっかりと中華スープの味になるようにするのがいいとおもう.写真の分量だけでは不足.
中華スープができたらカレー粉いれる.カレー粉は超ショボいのでいいとおもう.ここで長方形の箱に入ったバーモントカレー的なふつうのカレールーをつかったらきっと速攻で台なしだとおもう.これはイオンで150円くらいだった気がする.最終的な味つけはこのカレー粉の量で決まるので,ちょっとづつ投入して好きな味にすればいいとおもう.あまりたくさん入れなくて大丈夫.
さいごに水溶き片栗粉いれる.なくてもいい.ていうかこれしか入れなかったら全然とろみつかなかったしマジ損した.
で,こうなった.だいたいまぜたら完成(なんかまずそうだな).
ごはんに乗せて食べた.レンゲで食べると迫力出るのでおすすめ.色調はこの instagram のやつが実物にいちばん近い.
■こころ
・炒めて水と粉投入して終わりっていうレシピなので10分以内に完成する.マジ楽
・市販のルー,構成要素の多くは粘着質な油とかなので,このレシピでいくとヘルシーだし,後片付けもマジ楽.本当にいいことしかない
・とにかく楽なところが気に入っている
・中華スープを豚肉と味覇の味だけで決めてるけど,おいしい中華スープ作れるならそれでやればいいと思う.でもそれめんどくさそうで,めんどくさいとこのレシピの価値減少する.
・中華鍋(北京鍋)で作ってるけど,中華鍋で作る必要ないと思う.単におれがやる気なさすぎな為あらゆる料理を中華鍋で作ってるからこうなっている.テフロンのフライパンとかでOKでは
・でもこれ中華鍋で作ると勢いあっていい
・トマト入ってないので中華鍋に放置しても錆びなくて便利
・他に投入するとよさそうな具:あんま思いつかない.にんじんとじゃがいもは入れないほうがいい(というか,欧風カレーであっても,この2つを入れる意味がよくわからない,もうやんカレーをみろ)
・ちなみに欧風カレーのときは,豚肉こま切れとセロリの茎のみじん切りしか入れない
・カレー,引き算で考えると楽しいっぽくて,あれこれ入れようとするよりも,最低限なにで構成するとおいしいかみたいな考え方している.香妃園リスペクト中華カレーは変な作り方だけど,ふつうのルウでつくる欧風カレーは,洋風スープ(bouillon)+スパイス+とろみ(小麦粉)+具なので,中華スープ+スパイス+とろみ(片栗粉)+具,という構造はまったくおかしくなくて,オーソドックスであり,これでおいしく仕上がるのは論理的に考えて妥当と評価できる.料理は構造あってればだいたいまずくならない.
・日本の家庭料理としてのカレー,かなり現代日本風にチューンされた概念なので,いちどガン無視して構造主義的アプローチするとイノベーティブな事象を誘引しやすいと思う.ミッドナイトリゾット湾岸のときと同じ感じ
・このレシピ,たぶんカレー粉の量増やして味覇の量を減らして小麦粉いれたら,たぶん普通の欧風カレーとしておいしいのが完成すると思う
生産性に関するトークです
1) 生産性とはなにか?
生産性,辞書で生産性ってしらべると「生産過程に投入される生産要素が生産物の産出に貢献する程度」とか書かれててよくわからない感じなんだけど,たぶんなんか,ほんらいは専門的な用語なんだとおもう.よく生産性を向上させるとか,生産性がたかいとか,ひくいとか,こういったことばが日常の業務に関してでてくるんだけど,冷静にかんがえてみると,生産性ってなんなのかよくわからない.さきに書いた専門的な意味とは異なるように感じる.
日常に即したかたちで生産性というものをかんがえてみると,生産性を概念としてとりあつかうときに,主語をはじめとして,ことばが足りていないような気がしていて,したがって,おれは生産性のことを,ひとまず,自分ないし自分の生産物が価値を生産する能力の程度,というような意味でとらえてつかえばよろしいとおもう.もちろん自分以外はそんな意味でつかってないので,自分だけのひみつのつかいかたになってる.なお,生産性と本質を共有しないが類似している概念として創造性というものもあるんだけど,創造性についても,上記の説明の「生産」を「創造」におきかえれば,創造性をうまく把握できるようにおもう.
つまりどういうことかといえば,生産性とは,いうまでもなく効率性とは異なるのであって,自分や自分のやったことが,どれだけの価値を生み出すのかということで(生み出す,というと創造っぽくなってよくないんだけど),その生産性は価値ではからないといけないとおもう.投資理論みたいなの,ふつう2ヶ月とかで完成するの,2年かけて通常の1万倍もうかるやつ作ったみたいな話題は,後者の生産性が高いということになって,いい例っぽいとおもう.
ここで留意すべきは,「価値とはなにか?」というより深い問題があらたに表出してくるということで,よく知られているように,自分にとってなにが価値なのかを正確に把握して,そこにフォーカスすることはきわめてむずかしい.それがむずかしいから,7つの習慣とかが有用だし,パーソナルな問題は価値を正確に把握できないとか,あるいは価値を把握しているのにその価値を追求する行動をとれないことによって発生しているとおもう.したがってフォーカスすべき価値がなんなのか,本質的なゴール地点みたいなのを的確に設定できなければ,生産性とか創造性といったものは成立しなくなってしまうようにおもう.
(むろん,ここでは生産性とか創造性についておれが勝手に定義のようなことをしているからこうなるのであって,一般的にかならずこうなるとはいえない.でも,おおむねこうなるとおもう.).
アタシ夜酒辞めるチェックした
平日の毎晩「アタシ夜酒辞める…!」とか「アタシ夜酒辞める…?」とか発言しつづけている.
例
アタシ夜酒辞める…? pic.twitter.com/xFvxLBzLNp
— 快適な生活 (@Kaiteki) 2014, 8月 15
これ特定時刻に特定の文字列をツイートするみたいなのIFTTTで設定した単純なやつで,あらかじめTwitterにアップロードしたムギちゃんの画像のURLも入れてあるんだけど,なぜか必ずしもムギちゃんが表示されるわけではないという,おみくじ機能がIFTTT側の好意で追加された.
例
アタシ夜酒辞める…? pic.twitter.com/oBnYVuVxTS
— 快適な生活 (@Kaiteki) 2014, 8月 12
アタシ夜酒辞める…? pic.twitter.com/dSn3Qd6zJF
— 快適な生活 (@Kaiteki) 2014, 8月 11
ムギちゃんじゃない方の画像はTwitterのアイコン画像になってて,謎.
どっちもそれなりにfavをつけてもらってるんだけど,おれとしてはやっぱりムギちゃんが出てきたら当たりという感じで,一日をめでたく終えることができる.そこで玉音放送の日というのもあって,アタシ夜酒辞めるチェックしておいた.
アイコンの画像の人は「くもりん」っていう名前なんだけど,IFTTT設定開始した2014/4/28から2014/8/15まで,平日の毎晩,くもりんとムギちゃんのどっちが出現したか,それぞれどれだけfavをつけられたかを調べた.数値はfav数.favはおおむねめでたさを示す.
結果
社会をナメているのでGoogle Docsを挿入できると思っていたが人生山あり谷ありで,png画像のせたら雰囲気しかわかんなくなったけど雰囲気わかるので雰囲気感じて欲しい.詳しい分析はダルいしやるわけない.
サマリ
・出現数…くもりん:41,ムギちゃん:40
・fav数…くもりん:28,ムギちゃん:17
含意としては,くもりんとムギちゃんは無秩序に出現しているが,その出現のめでたさはほぼ同格である一方,そのめでたさは同格に評価されておらず,くもりんのめでたさがより多く評価されているというのがある.おれはムギちゃんが出てきた方がうれしいです.
個人情報に関するメモなんで
個人情報とかプライバシー,問題視されるのが個人情報の「流出」という局面ばかりっぽいところに違和感あるっぽいことに気づいた.個人情報やプライバシーの話題,なんか全体が噛み合ってないというか,話が上滑りしているような,あるいはなんというか現実感がないというか,現実に対して話がデカいような気がするなと思っていたけど,なんでそうなるのかよくわかんなかった.
個人情報をめぐるプライバシーの問題には,あるいは,というかよく概念整理してないからどう言葉で表現すべきかわかんないんだけど,あるいは,個人情報をめぐって個人のプライバシーが脅かされる局面っていうにのは,個人情報の「流出」だけじゃなくて,「収集」と「使用」っていうのある.むしろ,個人情報やプライバシーの本質は,流出よりも収集と使用の局面にあるんじゃないかという気がしてるっぽい.個人情報やプライバシーっていうのは,言うまでもなく個人がもっているもの,ないしは個人そのものであって,われわれ個人は企業とかお役所とかがどうしてもっていうから仕方なく,一定の範囲内でしかるべき手順でのみ,個人情報やプライバシーの一部を,テンポラリーな形でつかわせてやっている,貸してあげてるだけでしかない.それなのに企業とか役人ごときがそれを逸脱して好き勝手に個人の情報やプライバシーをいじくりまわすのは,個人を尊重していないので,決して絶対にマジで許されない.本来「個人情報が流出した」っていうのは,「企業や役所からどこかへの流出」よりも,「自分から企業や役所への流出」の方が,個人情報や個人としては問題だし,悪なのだと思いつつある.
これ多分,企業や国家と個人との関係をどうとらえるかの問題とリンクしていて,たとえば企業や国家と個人とではどちらが優先されるかとか,どっちがエライかとか,どっちがどっちを縛っているのか,監視しているのかっていうのに対する認識がかみあわないと,個人情報をめぐるプライバシーの問題も話がかみあわないのではと思う.むろん,企業や国家と個人とでは,個人が優先されるべきだし,個人がエライし,個人が企業や国家を縛ったり監視したりしてるんだけど,個人は必ずしも尊重されなくて,こういうのは容易に建前化されているし,また言うまでもなく,いまの日本語社会は企業や国家と個人との関係は逆になりつつあって,企業や国家が個人を優先しないし,個人はエラくないし,個人を縛ったり監視するのが,当たり前だよねみたいな方向に動いている.なので,そもそも企業や国家が個人から個人情報を流出させているよねっていう,個人情報の「収集」と「使用」の局面における問題が見すごされやすいのかもしれないなどと思った.
こういうの考えるきっかけになったのはスノーデン問題みたいなやつで,シリコンバレーのIT企業は利用者すなわち個人からガンガン情報すいとりまくってマーケティングにつかってるとか,あるいはそれを通じて国家機構に情報が流れてるとか,国家機構そのものがあらゆる情報を勝手に情報をすいとっていたみたいなパノプティコン問題みたいなのが気になってた.というのは,それがかなり巨悪っぽいのは分かるんだけど,実際のところどういう「実害」があるのだろうかとイメージするのはちょっと難しい.個人情報を勝手に吸い取ることの巨悪性が所与のものっぽくなってるんだけど,その理由がよくわかんなかった.わかんなかったんだけど,企業や国家と個人との関係っていう枠組みを導入したらちょっと分かってきた気がした.企業や国家が個人のいうこと聞かずに勝手に個人情報をつかうのは個人を尊重していない態度そのものであって,個人の尊重を第一の価値とする社会ではそういうの絶対許されないから,巨悪が所与っぽくなるのかと思った.
21世紀の江戸前寿司
大学のちかくに妙に目立たない寿司屋があって、昼にひとりで時々いく、なかは黒い板を貼りつけたり漆喰を塗りつけたりして間接照明で渋いんだけど、カウンターの向こうでは異常に頑固な爺ちゃんがテレビのワイドショー観ながら寿司を握り、人当たりのいい婆ちゃんがそれを運ぶ。食器類が常軌を逸する高品質で、あとで載せる写真では絶対に伝わらない感じで、もはや食器ではなく芸術作品なのがいい。
考え方について2点あるので
▪︎いま起きてることについて
・1930〜40年代の流行に合わせたらどう表現されるか、その反対はどうか、両者は同じではないか
・1930〜40年代の指導者の言動といまの指導者の言動の構造は同じではないか
・なにか大きな事件が数年後に起きると想定して、その事件のことを50年後にwikipediaとかで解説される時、いま起きていることはどのように記述されるか
▪︎意見について
・意見には「人間同士は本来同質的」という考えを前提としたものと、「人間同士は本来異質」という考えを前提としたものとに大別できる、その意見や意見を述べる人間は、そのとき、どちらの考えを前提としているか
・人間同士の同質性を前提とする人間は、多様性のない社会で生きている人間(田舎者や幼稚な人間)であり、それゆえに「自分だけは違う人間だ」と考えるので、「個性」のアピールをしたり、考えの見通しが甘かったり(自分は特別だから甘い考えでも問題ないという考え)、他人の考えを理解できると考えたり、表面的な社会的属性、たとえば年齢、性別、出身地、所属先、肩書き、年収、容姿、恋愛対象の性別などで人間や物事の価値を判断しようとしたりする、そこに「個人」という価値観は成立しない
・人間同士の異質性と同質性、どちらも持ち合わせてる、そのバランスや自覚が必要
同質性を前提とする価値観の強い人間が日本語社会では大多数であり、野蛮な危険人物